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Black Treasure Box1・再掲

【裸になってT駅前から大通りを歩け。走ってはいけない。信号を10渡ったらまた駅まで引き返すこと】

それが3つ目の指示だった。
「こ、これは」
私の背後からスマホの画面をのぞきこみながら、樹奈《みきな》が言う。
「だ、大丈夫なのか、七織《ななお》、こんな」
大丈夫なはずがない、できる訳がない、と理性は悲鳴をあげる。
しかしそれもすぐ、やらなければならない、という何ともいえない強迫観念にとって変わられてしまう。
やらなければ何があるというのか。
それさえはっきりしないというのに、その漠然とした恐怖にあらがうことは出来ない。
これまでのふたつの指示で、そのことはもう嫌というほど分かりきっていた。

「樹奈、車をお願い」
メッセージの文面自体に、いつまで、のような制限はないにもかかわらず、あたふたと準備にとりかかってしまう。
多くの人々の視線にさらされるであろうから、せめて身体をシャワーで清めたい。
その場ですぐ脱げる服装というと、前開きのワンピースだろうか。
どうせ裸になるのなら、下着は最初からつけていかないのが効率的だろう。
矢継ぎ早にそんな考えが頭をかけめぐる。

「本当にやる気なの? ちょっとおちつけって」
ボタンを外す順番さえ間違えるくらい、泡を食って着替えを始めた私を、樹奈は両肩をつかんで自分の方へ向かせた。
私に何が起こっているか、それは彼女もよく分かっている。
だから、こうして私のマンションに泊まり込んでまで一緒にいてくれるのだが、実際に目の前で私がアプリからのメッセージを受信する場面に居合わせるのは、これが初めてだ。
いざとなったら腕ずくででも止める、と言ってくれていたのだが、実際にその時が来てみれば、戸惑うばかりのようだ。
「だって、だって」

言われなくても、冷静にならなくてはいけない事は分かっている。
だが、それが出来ない。
早く、急がなければ、との焦燥感ばかりが沸き上がってくる。
早く、この指示を実行しなくては。
自分の中でそれがもう動かしがたい決意になってしまっているのが分かる。
教職にある身、世間では名門とも伝統校とも呼ばれる学校に籍をおく身でありながら、白昼の往来で恥知らずな真似を。

どうしてこんなことに、と嘆いてもどうしようもない。
自分のうかつさの招いたことであるのも確かなのだ。
もっと慎重に判断していたら。
しかし、そうは言っても誰があんな現実味のない話を信じるというのか。

Black Treasure Box、「黒い宝箱」というそのアプリの話を最初に聞いたのは、樹奈からだった。
昔からあやしげなオカルト話、都市伝説には関心の強い娘だった。
中堅どころの携帯電話会社につとめながら、その方面のブログや動画配信で名を売っていたかと思ったら、フリーライターになるなどと言い出して、今は貯金を切り崩しながら取材と称して飛び回っている。
私からしたら遊び歩いてるようにしか見えないのだが。
そんな彼女とバーで飲んだのが1週間前のこと。
その席で私をとんでもない苦難に追い込むことになるアプリ、通称BTBの話題が出たのだ。

「ダウンロードする方法は色々いわれてる。迷惑メールみたいに無差別にアドレスが送られてくるとか、決まった金曜日の深夜にだけサイトが開くだとか」
彼女と呑むとどうしても、特にある程度杯を重ねてからは、そんな話題になる。
私自身は、その類いの話に人並み以上の興味はないのだが、樹奈の拾ってくる話は作り話にしてもそこそこ出来が良く、彼女自身の話のうまさもあって、つい聞き入ってしまう。

「で、そのアプリをスマホに入れると、メッセージが届くようになるのよね」
「なんだ、七織、知ってたの?」
「生徒が噂してたのをちょっとね」
ただ、そのメッセージの内容がよく分からない。
生徒たちに話を振ってみても、困ったような苦笑い、照れ笑いで誤魔化されてしまうばかりだったのだ。
「名門M女子学苑の生徒さんじゃ、それも仕方ないかな」
「もう言われてるほどのお嬢様学校でもないわ。私で教師がつとまるくらいだもの」
「ご謙遜を。まぁ、そうでなくても先生の前ではしづらい話さ。要するにいささか卑猥な内容になる」
「出会い系?」
もしそうなら、さすがに教師として捨て置けない。
そんなアプリが実在するとしてだが。
「少し違う。メッセージが届く間隔はまったく不規則で、2日続くかと思うと1週間開いたり、まるで相手の職業や勤め先が分かっているみたいに、休日の手透きの時間を選んで届くなんて話もあるんだけど、要するに何らかの課題が与えられるらしいんだな。何かしらのエッチなミッション」
最後はさすがに声をひそめた。
「難しいこと?」
「物理的にはそれほどでも。ただ心理的なハードルは相当高いようだね。どこそこへ行って服を脱げとか、ナニをしろとか、主に公開羞恥系」
人前で恥ずかしい真似をさせられる、という訳だ。
急に話が俗っぽく、信憑性も薄れた気がした。

「そして、そのミッション、全部で7つとも10とも、12や20って話もあるんだけど、それを全部やりとげた暁には」
樹奈はもったいをつけるように間をおいたが、その先は見当がついた。
「どんな願いもひとつだけ叶えられる、とか」
「正解。それは知ってた?」
「この手の話のお約束じゃない。それで、実際にいるの? その、アプリで願いをかなえたって人が?」
もしいたら、もっと騒ぎになっていてよさそうなものだけど、と思いながら私は聞いた。
「七織も知ってるだろ、ほらあのニュースキャスター」
樹奈の名前を出したのは、民放キー局の若手アナウンサーだった。
3ヶ月ほど前に夜9時台の報道番組に大抜擢を受けた。
いわゆる局アナマニアと言われる人たちにとっても相当意外な人事だったらしく、あれはこうだとか実はこうなのだとか、裏であった、あるいはあって欲しいことがさまざまに議論されている。
それが、その謎のアプリのおかげだったというのか。
「あんな有名人がそんなことしていたのだったら、騒ぎになるどころじゃないじゃない」
「そこがミステリアスなところでね。彼女のその行動を撮影した動画まで残ってるというんだけど」
「どうせ誰も観たことがないんでしょ」
「そういうこと」
あたしもあれこれ当たってはみたんだけどね、と樹奈は頭をかいた。
よく言って他人の空似か、別に卑猥でもなんでもないプライベートの隠し撮り、もっとひどい捏造動画、そんなところだったということだ。
「それもお約束よね」
「でも、この話は結構“におう”んだよなぁ。細部に色々尾ひれはついてるにしても、何か噂の元は実在してそうな」
「根拠は?」
「勘、かな」
「凄腕オカルトライターの?」
「そういうこと」
ふたりして笑いあったこの時点では、私はそんなアプリの存在をまったく信じていなかった。

Black Treasure Box(まとめマガジン)



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