『かえるの王さま』の草稿を読む②: 王女は人目を忍び一人遊びをしていた
挿絵:井戸をのぞき込む王女 by Bernhard Wenig
以前の記事で、グリム童話の改訂過程を見たのち、『かえるの王さま』のエーレンベルク稿と第7版におけるタイトルの違いについて書きました。本記事はその続きです。いよいよ本文の比較に入ります。
願いが救いにつながる物語
第7版金田訳の書き出しは、
で始まります。ドイツ語の原文は、
であり、素直に英語に直訳すると、"In the old days, when wishing still helped,"となります。日本語としては、「昔、まだ願いが救いにつながった頃」という感じです。金田訳は、日本人向けに昔話としての格調高さを重視した、かなりの意訳となっていることがわかります。
一方、
エーレンベルク稿ではこうした回りくどい出だしは一切なく、最初からシンプルにストーリーを語っています。
実は、
グリム童話第7版に収録されている他のお話を見ても、このような語りだしをしている作品はありません。
前置き的な文章なしで、最初からストーリーに入るお話が多いです。
中には、「むかし昔あるところに」で始まるお話もありますが、その場合も、原文は、"Es war einmal …"であり、英語に直訳すると"There was (were) once …"となる、とてもシンプルな表現です。それを日本語に訳す際、日本の昔話風に「むかし昔あるところに」としているに過ぎません。ちなみに、『かえるの王さま』も、初版では"Es war einmal …"で始まっています。
この作品でこのような語りだしをしていることには、ちゃんと意味があるのです。それはこの作品で、「願い」(das Wünschen; wishing)が重要な役割を果たすこと、そして、それが「救い」(helfen; help)につながることです。
ここで、das Wünschenは、望み、願い、祈りを包含する意味です。
本作品では、カエルが王女に求めた「願い」が重要な役割を果たします。そして、最終的に、カエルにかかった魔法が解けることで、カエルの「救い」につながります。
より重要なのは、鉄のハインリッヒの「願い」かもしれません。主君がカエルになってしまった悲しみで胸が破裂するのを防ぐため、胸に鉄のたがを3本はめた人物です。主君に人間に戻ってほしいと願う彼の気持ちは言語に絶するものがあったでしょう。その願いが、カエルの呪いを解いたと考えることもできます。
ちなみに、
ドイツ語で「願う」はwünschen、「呪う」はverwünschenで、接頭辞verには「逆」の意味があります。願いの働きを逆にしたものが呪いであり、呪いの働きを逆にした者が願いです。だから願いで呪いが解けるのです。
第7版でグリム兄弟が加えたこの語り出しは、口承で伝えられたお話に対する彼らの上のような解釈を反映させたものであると言えます。この改変はとても優れていると感心せざるを得ません。グリムは文学者としてもとても優れています。
王女は際だって美しくされる
第7版では、王さまの姫は皆美しいこと、中でも本作品のメインキャラクターである末の姫は際立って美しく、お日さまが「どうしてこんなにうつくしいのか」と、不思議に思うほどであったと書かれています。
エーレンベルク稿には、そのような記述は一切なく、「王さまの末の娘」としか書かれていません。
詳細な描写を加筆
王女は森に行き、泉のそばに座ります。エーレンベルク稿の記述はとてもシンプルで
と書かれるのみです。
一方、第7版では、お城の近くに大きな暗い森があること、そこに菩提樹の古木があり、その根元に泉があること、暑い日に王女は涼しい泉のほとりに座ることにしていたことが書かれます。
読み手の気持ちを引き込むよう、詳細な描写を大幅に追加し、読み物として面白い形に再構成しています。
以降、第7版で単に描写が詳細になっているだけの場合、いちいち違いを取り上げてはきりがないため、特に言及すべきことがない限り、本記事では取り上げません。
泉なのか井戸なのか
ここで泉と訳されていますが、ドイツ語の原文はBrunnenです。この語は井戸、噴水、泉といった複数の意味を包含しています。英語ではwellと訳されることが多いです。wellにも井戸のほか、泉の意味があります。
本の挿絵では井戸として描かれることが多いですが、泉や噴水の挿絵も存在しており、解釈は定まっていません。後で、鞠が転がってBrunnenに入るという叙述があるため、井戸では石壁が邪魔で入りにくいという理由で泉という解釈が取られることがあります。泉と言っても、これらの語から受けるイメージは、湧き水によってできた小さな池のようなものです。Oliver looの英訳では、そのイメージのままspring-pondと訳しています。また、井戸の挿絵においても、石壁がないか、あってもとても低く描かれていることが多いです。本記事の挿絵のイメージです。
日本語ではどの版を見ても泉と訳されています。日本人には石壁の低い井戸が馴染みがないからでしょうか。
ボールをまっすぐ放り上げて遊ぶ
泉のそばで、王女は鞠で遊びます。
エーレンベルク稿の記述は、
と書かれるのみです。
第7版では、
となります。
鞠は原文ではKugelで、ボールのことです。昔の日本では球状の遊び道具は鞠しかないので、金田訳では鞠と訳されています。鞠は地面について遊ぶものですが、ここでのボールはそういうものではないでしょう。本記事では、ボールと記述することにします。
ボール遊びは普通複数人で行うものなので、王女が一人でボール遊びをしているというのはいささか奇妙な気がします。
ボールを上に放り投げてキャッチするのが何より好きとか、寂しすぎるでしょ・・・。
この童話の聞き取りがされたドイツのヘッセン地方の方言では、黄金のボール(goldene Kugel; golden ball)という言葉は「黄金に輝く男根」を意味するそうです。そんな遊び道具を使い、人目を忍ぶように一人遊びしているというシチュエーションには、性的な隠喩を感じざるを得ません。しかも、場所がBrunnenであり、泉と訳されていますが、イメージとしては水が湧き出る小さな場所です。エロいです・・・。このように、この作品には、全体的に性的な隠喩の匂いがプンプンするのです。
エーレンベルク稿の記述はシンプルなため、様々な想像の余地がありますが、ボールでどのように遊ぶかが具体的に描写されれば、上記のような想像の余地も限られてきます。第7版ではそのようにして広く受け入れらる形にしているのではないかという解釈も成り立ちます。ちなみにボールを放り上げるという描写は、初版の段階ですでに採用されています。
王女は大声で泣き叫ぶ
遊んでいる最中、ボールが転がって泉に落ち、深みに沈んでしまいます。エーレンベルク稿では、それを見て王女は悲しくなったとしか書かれませんが、第7版では王女は大声で泣き叫びます。
大切なボールを失った悲しみが大きく、この後カエルに、ボールを取ってくれたら何でもあげると言ってしまうことにつながっていきます。
王女は外面は淑女
そこへ水の中からカエルが現れ、どうして嘆いているのかと聞きます。エーレンベルク稿では、王女は最初からカエルに失礼で、
と罵声を浴びせるのですが、第7版では、
と親しみを込めて話しかけます。
ここは日本語だとニュアンスがわかりにくいですが、エーレンベルク稿の原文は、"du garstiger Frosch"で、英訳は"you ghastly frog"となっています。邦訳は、「きたならしい」とありますが、より原文に近いのは「ぞっとする」感じです。
一方、第7版の原文は、"Ach, du bist's, alter Wasserpatscher"で、英訳はそのまま、"Oh, it's you, old water-splasher"となります。ここで、alt(old)は、親しみを表す意味です。
第7版で王女は、外面では淑女としての対応を見せつつ、内心は別のことを考えている女性として描かれています。
王女は何でもあげると言う
王女はカエルにボールが泉に落ちたことを説明します。これに対し、第7版では、カエルは、自分がボールを拾ってきたら、王女は自分に何をくれるかと聞きます。
王女は答えます。
ボールを失った悲しみが大きい王女は、ボールを取り戻すためなら何でもあげるとまで言ってしまいます。
カエルは自分の願いをすべて並べる
カエルは、そんなものはほしくないと言い、代わりに
と、
王女にしてほしいことをすべて並べ、約束を迫ります。
この描写は、エーレンベルク稿のそれとは大きく異なります。エーレンベルク稿では、王女の説明に対し、カエルは、
と、家に連れて行くことだけを求めています。
エーレンベルク稿では、王女は「何でもあげる」とは言わないし、カエルも、事前に願いをすべて並べることはしません。
約束を守ることが義務となる
第7版では、カエルが並べた願いを王女が受け入れることで、これ以後、彼女はカエルとの約束を果たす義務が生まれます。父である王が、ことあるごとに約束は守らなくてはいけないと言うからです。
一方、エーレンベルク稿では、家に連れてくること以外の約束はありません。その代わり、王女によくしてくれたカエルの願いを聞くよう、その都度、王に命令されることになります。
つまり、第7版では、「約束をしたら守らなければならない」という神話や童話によくある形式が持ち込まれています。しかし、もともとの口承にはそういう要素はなかったのです。
カエルは王女に愛されることを願ったのか?
ちなみにこのような変更は、初版ですでに採用されています。初版ではカエルのお願いは以下のようになっています。
初版では、「わたしを大切に思い愛してくれるなら」という条件が入っているのが注目されます。
ただし、ここで使用されている「愛する」の動詞は、原文ではlieb habenで、正真正銘loveの意味であるliebenと比較すると、be (very) fond ofのニュアンスがあり、家族の愛などで使われる語です。カエルが性愛を要求しているとは断言できません。
先に引用した第7版の邦訳では、カエルは王女にlieb habenすることは求めていないことになっていますが、この邦訳には議論の余地があります。
原文は、
となっています。読者のために、論点を明確にする形で英訳すると、
となります。原文のliebhabenは、be fond ofとしておきました。
ここで、最初のifが、"you want to be fond of me"にだけかかるのか、"I am supposed to be your companion…"以降にもかかると考えるかで解釈が変わってきます。
前者であるなら、王女がなんでもあげると言っているのに答え、「もしあなたが私をかわいがりたいのなら、私はあなたの仲間で、遊び友だちで、・・・、あなたのかわいらしいベッドで眠るのが当然である。それを約束してくれるなら・・・」という感じの言い方です。この場合、かわいがることは要求していません。先に引用した金田訳はこの立場です。
後者であるなら、「もし、あなたが私をかわいがりたくて、私はあなたの仲間で、遊び友だちで、・・・、あなたのかわいらしいベッドで眠ることになるのなら、そして、それを約束してくれるなら・・・」という意味になります。この場合、かわいがられることが要求されています。邦訳ですと、楠山正雄訳はこの立場です。ちなみに私が参照している英訳もこの立場でされています。
どちらの訳が適切なのかを判断する力は私にはないので、このように判断が分かれていることを確認した上で先に進むことにします。
エーレンベルク稿には、カエルが王女にlieb habenすることを求めるシーンはありません。本記事における『かえるの王さま』の解釈は、これをベースに行いたいと思います。
私は、この童話の本質は、カエルのゲスな要求と、それに向けられる王女の怒りにあると考えるので、カエルが王女に愛を求めるのは余計だと思っています。
王女は内心でカエルをバカにする
話は続きます。
王女はカエルの願いをかなえる約束をします。第7版ではこのとき、王女の内心の描写が続きます。
淑女なのは外面だけというわけです。
「蛙のおばかさん」は、原文では"einfältige Frosch"で、einfältigは、simpleとかnaiveのニュアンスです。FroschはFrogです。「オレキレキ・アナタガタってないてる」は、かなりの意訳で、原文は単にquaken、英語のcroakに当たり、カエルが鳴くときの一般的な動詞が使われているに過ぎません。
エーレンベルク稿では王女の内心は描かれません。
その後、カエルは王女の約束を受けて、泉に潜ります。そして、ボールをくわえて戻り、地面に放ります。しかし、ボールを拾った王女は、カエルには目もくれず、城に向かって走り去ります。一緒に連れて行くよう叫ぶカエルには耳も貸しません。
次回予告
ここで区切ります。次回は、王女が城に着いてからのお話です。