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『かえるの王さま』の構造分析: この作品は西洋版『浦島太郎』である

挿絵:月岡芳年画浦島太郎

この間、蛙化現象について、いくつかの記事を書いてきました。蛙化現象の名称の由来は、グリム童話の『かえるの王さま』です。童話では、蛙にされていた王さまの魔法が解け、もとの人間に戻りますが、蛙化現象では反対に、恋の魔法が解け、人間に見えていた彼氏が、蛙に見えるようになってしまいます。

『かえるの王さま』の奇妙さ

私が小学生の頃、家にグリム童話の本が置いてあり、母から読み聞かせをしてもらっていました。懐かしい思い出です。その後、気に入って自分でも読みすすめていました。ちなみに私がその本をまだ読んでいる途中、母が知り合いに貸してしまい、家に返されるまで数年かかったため、私は読了を諦めてしまいました。

数年って、ひどくないですか?( ̄^ ̄゜)グスン

まぁ、それはともかく、『かえるの王さま』は母から読み聞かせてもらったはずですが、内容はもう覚えていませんでした。そこへ最近、蛙化現象に関わった縁で、そのあらすじをチェックしてみました。

何だかとても奇妙な話です。グリム童話の他の話と比べても、その異質感が際立っているのです。

そのことが私の心を深く捉え、この話をもう一度読んでみることにしました。

調べてみると、グリム童話の作者であるグリム兄弟は、1812年の初版から1857年の第7版に至るまで、グリム童話の加筆・修正を重ねていますが、すべての版を通じて、この『かえるの王さま』を冒頭に配置しています。ミネソタ大学の文学研究者Jack Zipes氏によると、

グリム兄弟は、この話をとても価値あるものとみなし、ドイツ語圏に残る童話の中でも最も古く、そして美しいものの一つと考えていたそうです

(Zipes, Jack. 2016. The Original Folk and Fairy Tales of the Brothers Grimm: The complete first edition. Princeton: Princeton University Press. p.479)。

あらすじはこうです。

ある国の王女が、森の泉に金の鞠を落としてしまいます。そこへカエルが「自分を王女様のお友達にしてくれて、隣に座って同じ皿から食事を取って、あなたのベッドで寝かせてくれるのなら、拾ってきてあげよう」と申し出ます。王女は条件をのみますが、鞠を取り戻せた途端、カエルを置き去りにして走って城へ帰ってしまいます。

翌日、カエルが城に現れて王女に約束を守るように要求します。 王は王女から事情を訊き、約束を守るように命じます。王女が嫌々ながらもカエルと一緒に夕食をとった後、カエルは王女のベッドでの同衾を要求します。王女は恐怖と嫌悪から泣きながら拒みますが、王の命令によって寝室へ行くこととなります。

王女は寝室の隅にカエルを置いて一人で寝てしまおうとしますが、カエルは「自分をベッドに上げてください、さもないと王に言いつける」と抗議します。王女は腹を立て、罵りながらカエルを壁に叩きつけます。するとカエルの魔法が解け、立派な王子の姿に戻ります。間もなく二人は仲良くなり、婚約することになります。

日本語版Wikipediaの記述を一部修正(鉄のハインリヒの話は省略)

この童話が奇妙である第一の理由は、王女がとてもわがままなことです。

グリム童話では、年頃の娘が主人公であることがよくありますが、総じて、彼女たちは善良です。シンデレラや白雪姫を考えればいいでしょう。腹違いの姉妹に比べて賢く、姉妹たちが欲にくらんで失敗する中で、難事を見事に切り抜け、王子さまと結婚してハッピーエンドに至るのが定番です。その系統で考えたら、王女の性格はむしろ腹違いの姉妹の側です。

そして、この童話で最も奇妙なのは最後のシーンです。カエルを壁に叩きつけるという非道な行いにもかかわらず、それをきっかけに魔法が解け、カエルは王子の姿に戻ります。そして王女は王子さまと結ばれるのです。

昔から、悪い魔法使いの魔法を解くのは、ピュアな少女の口づけや真実の愛と相場が決まっています。そうしたものとは真逆と言える王女の暴力によって魔法が解けるとは、一体全体どういうわけでしょうか?

「かえるの王さま」で検索をかけると、この童話が理解できないという意見であふれています。Yahoo!知恵袋に投稿された質問をいくつか取り上げましょう(著作権の関係で一部抜き取りしています)。

「カエルの王子様」の意味がわからんのだが、これって、なにか深い意味があるのかね?王女は約束を守らない。女性の寝室にやってくるゲスなカエル。逆ギレで、暴力を振るう王女(正当防衛か?)。壁に叩きつけることで、王子の呪い?がとける謎。立派な王子になったら、好きになる見た目がすべてか。

うん、それな。

グリム童話の「カエルの王さま」は、なぜ壁に叩きつけられてもお姫様と結婚したのですか?自分を壁に叩きつける女と喜んで結婚する心理が分かりません。

ほんそれ。

この奇妙さと理不尽さは、我々の常識の範疇の外にあるものです。これをきっかけに異世界への扉が開いた感があります。ヤバい!転生しちゃう!

にもかかわらず、この話はグリム兄弟によって、最も美しい話の一つとして作品の巻頭に位置づけられ、200年以上の長きに渡り世界中の人々に親しまれてきたのです。

『浦島太郎』の理不尽さ

理不尽でわけがわからない。でも、なんか気になる。私たち日本人は、このような感覚に既視感を覚えないでしょうか?日本の文化の中にも、同じような受け取り方をされている昔話があります。

そう、浦島太郎です。

子どもたちにいじめられていた亀を助けた浦島太郎は、そのお礼に竜宮城に案内され、そこで乙姫様から盛大な歓待を受けます。ここまではいいでしょう。

しかし、故郷に戻った太郎を待っていたのは、数百年もの時が過ぎた世界でした。太郎を知るものは誰もいません。大事にしていた母親も死んでいます。「開けてはならない」という乙姫様の忠告を忘れ、玉手箱を開けると、中から出てきた白い煙に包まれ、太郎はお爺さんになってしまいます。話はここで終わります。

王子さまと結ばれてハッピーエンドになる『かえるの王さま』とは結末こそ正反対と言えど、その奇妙さと理不尽さには同質のものを感じます。

Yahoo!知恵袋に寄せられた浦島太郎に関する質問を見てみましょう。

亀を助けて善行をし、数日間もてなしてもらっただけなのに、勝手に数十年時間を進まされて、しかも説明もなく玉手箱を持たされて結局開けてしまい、寿命間近の年齢にまでさせられてしまうなんて、理不尽過ぎると思います。

うん、それな。

カメを助けなければ爺にならずに済んだということでしょうか。
玉手箱を開けなければよかったのですか。
竜宮城に行って、そのままそこで死ぬまで楽しめばよかったのですか。

ほんそれ。

この理不尽さをどう理解したらよいか、多くの人が困惑しています。にもかかわらず、私たちは、この話をこよなく愛し、歌にして歌い、子どもたちに語り継いでいるのです。わけがわからないと思いつつも、この話に、言葉にできない奇妙な魅力を感じてしまっているのです。

ちなみに私が幼稚園に通っていた頃、幼稚園のイベントで浦島太郎の劇をやりました。私は、浦島太郎に玉手箱を渡すカレイ役でした。私のあまりの可愛さに、見ていたお母さんたちが嬌声を上げていたそうです。今やいい歳したおじさんの私には、遥か昔の話です。ウラシマな気分・・・。

お風呂で兄と「浦島太郎ごっこ」もよくやっていました。一方が湯の中に潜って亀役となり、もう一方がその上に乗り、浦島太郎役となって、浦島太郎の歌を歌います。亀役はその間ずっと息を止めなくてはならず、できなかったら負けというルールです。何やってたんだろうね、僕たち・・・。

物語の構造が同じ

『浦島太郎』が『かえるの王さま』と似ているのは、奇妙で理不尽であるにもかかわらず、多くの人に愛され続けているということだけではありません。

『かえるの王さま』と『浦島太郎』の物語の構造は、ほぼ同じなのです。

そのことを見ていきましょう。

まず、『かえるの王さま』では、王女が泉に鞠を落とし、それをカエルが拾って王女のもとに持ち帰ります。一方、『浦島太郎』では、亀が浜にやってきて、いじめに遭い、浦島太郎に助けられたことで、彼を竜宮城に連れてきます。

泉と海(竜宮城)は異世界の象徴です。鞠と亀は、現世界と異世界とを行き来するきっかけをもたらす媒介です。鞠と一緒に現世界に来たのはカエルです。亀と一緒に異世界に来たのは浦島太郎です。両者で、現世界と異世界の位置は反転しています。しかし、媒介となる存在をきっかけに、現世界と異世界を行き来するという構造は同じです。また、亀もカエルも、水中と陸上の狭間で生きる点が共通しており、二つの世界を行き来できる存在の象徴となっています。

浦島太郎は亀を助け、カエルは王女を助けます。助ける対象にズレがあるものの、誰かを助けるという点が共通しています。また、王女はあくまでカエルを騙そうとするのに対し、太郎はどこまでも誠実であるところ、両者で表現は反転しています。

別世界に来て、カエルは城で王女とともに夕食を共にします。浦島太郎は竜宮城で乙姫様に歓待をうけます。この構造も同じです。しかし、王女は嫌々ながら、乙姫様は心から歓待するという点で、両者の表現は反転しています。

その後、カエルは王女の寝室に連れて行かれますが、部屋の隅に放っておかれます。浦島太郎は、故郷に帰ると数百年の時が過ぎていることを知ります。ここでも、歓迎されたはずなのに、ひどい仕打ちを受けることになる、という構造が同じなのです。ただし、カエルは王女の嫌悪によって、太郎は乙姫様の無理解によってそうなるところが違います。

このような仕打ちを受け、カエルは「王に言いつける」と言います。ここで、カエルには王の権威を笠に着て自分の要求を通そうとする浅ましさがあります。物語を通じて、カエルが初めて見せる負の感情です。浦島太郎は乙姫様にもらった玉手箱を開けてしまいます。乙姫様から「開けてはならない」と忠告されていたにもかかわらずです。物語を通じて、浦島太郎が初めて見せる不義理です。どちらの話でも、仕打ちに対する応答に罪が伴っているのです。

カエルの言葉に王女は怒ります。浦島太郎は玉手箱を開けます。玉手箱は、太郎にいつまでも若くいてほしいと願う乙姫様の思いやりの気持ちの象徴です。一方は怒りの発露、もう一方は思いやりの気持ちです。ここでも表現が反転しています。

最後に、カエルは壁に叩きつけられ、王子に戻ります。浦島太郎は煙に包まれ、お爺さんになります。数百年後の本来の姿という意味では元に戻ったと言えるでしょう。どちらも元の姿への回帰ですが、その意味は真逆です。カエルの方は暴力がもたらしたハッピーエンド、浦島太郎の方は思いやりがもたらしたバッドエンドです。物語の結末も、構造は同じでありながら意味が反転しているのです。

『かえるの王さま』と『浦島太郎』の物語の構造は、ほぼ同じです。果たして偶然なのかと驚くほどの一致です(私は偶然だと考えます)。しかし表現は反転しています。

『かえるの王さま』は、同じ構造の下で表現が反転された『浦島太郎』なのです。

『浦島太郎』は古代の感覚で読むべき

『浦島太郎』の結末はとても理不尽なものであるため、多くの人が困惑しますが、実は、この結末の成立には歴史的な変遷があります。

古代においては、開けるのを禁じられた箱を開けると、体が消滅してしまうお話として伝えられていました。老人化する近代版とは異なりますが、バッドエンドであることは同じです。

しかし、室町時代になると、箱を開けた浦島太郎は鶴になり、亀に化身した乙姫様と夫婦となった話として成立します。日本の昔話によくある、動物を助けたことに対する恩返しのお話となるのです。このバージョンは、江戸時代にも受け継がれます。

現代に伝えられている『浦島太郎』は、明治から昭和にかけて読まれた国定教科書版が元になっています。ここでは、玉手箱を開けて老人化させることで、約束を破ると悪いことが起こると伝えようとしたと言われています。近代的な教育上の意図というわけですが、形式的には、古代のバージョンに戻ることになりました。

しかし、私は、『浦島太郎』をこのような近代的な意図に即して読むのはつまらないと考えます。室町時代に成立したような、純粋な恩返しの話にしてしまうことにも納得がいきません。そのように読んでしまっては、『浦島太郎』の奇妙さと理不尽さに由来する本来の魅力が失われてしまうと思うからです。

『浦島太郎』は、古代の感覚で読むべき。

そう思います。この話が古代に成立したとき、そこには近代的な教育上の意図などなかったし、仏教によって後にもたらされる因果応報の文化も、まだ定着していないのです。

浦島太郎は、異世界との接触がもたらす奇妙さをストレートに味わうお話です。

浦島太郎を竜宮城に案内した亀にも、彼を歓待した乙姫様にも悪意は全くありません。彼らは、本心で太郎に感謝し歓待したのです。

しかし、異世界人は現世界に住む人間の感覚がわかりません。異世界と現世界とで時の流れが異なることは知りつつも、そのことで太郎が困ることなど思いもよらないのです。月人であるかぐや姫が求婚者に命がけの難題を突き付け、そのせいで死んでしまっても「少し可愛そう」と澄ましてのたまうのと同じです。

その奇妙さ、怖さをストレートに味わうのが『浦島太郎』の古代的な楽しみ方です。そこに何らかの教訓とか因果応報のような、後の時代に成立する考えを持ち込んではいけません。

『かえるの王さま』も古代の感覚で読むべき

『かえるの王さま』の読み方も同じです。

この童話も人々を困惑させるストーリーであるため、より受け入れられやすい形のものが後に作られています。王女の暴力ではなく、王女のキスによってカエルが王子に戻るというものです。しかし、浦島太郎を因果応報的に読むのと同様、こういう読み方は、この作品本来の魅力を失わせるものです。

先に、『かえるの王さま』は、ドイツ語圏に残る童話の中でも最も古いものの一つであることを紹介しました。この話は、グリム童話に収録されている他の話と比べ、異質感が際立っています。他の話が教育的であったり、因果応報的であったりするのに対し、この話にはそうした要素がほとんどありません。

それは、この話がキリスト教の影響を受ける以前の古代ゲルマン民族の感覚に根ざしているからだと思われます。

ですから、『かえるの王さま』も、古代の感覚で読まれるべきです。教育的な要素を期待してはいけません。

王女はどこまでもわがままです。カエルはカエルで厚かましいです。彼らのそのようにあるべくしてあるような応酬によって、この話は進行します。そして、わがままな王女の発する純粋な怒りとともに、カエルに加えられる暴力によって、カエル自身の救済が実現される、という奇妙な展開を楽しみましょう。純粋/怒り、暴力/救済、という対立する概念が入り混じっているのです。そして、王子になった途端惚れてしまう王女の節操のなさを楽しみましょう。

なぜカエルは王子に戻れたのか

ところで、『かえるの王さま』のストーリーにおける大きな謎は、なぜ王女によって壁に叩きつけられたカエルが王子の姿に戻ったのかという問題です。これについての私の解釈も書いておきましょう。

王女は最後に一つだけ正しい行いをしたのです。カエルが「王に言いつける」と、王の権威を笠に着て自分の要求を通そうとしたことに怒り、カエルを罰したことです。そして、それは王の命令で嫌々したことではなく、父親である王に叛逆し、自分自身の強い意志と感情で行ったことでした。

王女の純粋な意志と感情が、王子にかけられた魔法を解いたのです。

西洋と日本の違い

『かえるの王さま』の最後はハッピーエンドです。決して因果応報ではありませんが、最後はハッピーエンドです。これは、グリム童話に収録されている童話全体に言えます。

一方、『浦島太郎』(古代のバージョン)はバッドエンドです。日本の文芸には、悲劇の伝統が脈々と流れています。最後は無に帰すことを美とみなすのです。竹取物語や鶴の恩返しを考えればいいでしょう。この伝統は、現代の『ドラえもん』にまで受け継がれています。

『かえるの王さま』と『浦島太郎』は、どちらも古代の感覚で作られた作品で、物語の構造はほぼ同じです。しかし、その表現は反転していることを指摘しました。その理由は、このような西洋と日本の文化の伝統の違いに由来するものと思われます。

すなわち、『かえるの王さま』は、西洋版の『浦島太郎』であり、『浦島太郎』は、日本版の『かえるの王さま』なのです。

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