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ひとりぼっちも素晴らしい【孤独感を手放した先にある自由】vol.6 孤独への恐怖で失う、人を尊重する想い

こんにちは、スナオイロのナオコです。

前回に引き続き、今回も多くの人がネガティブに捉えがちな『孤独』について、わたしの経験をわかち合いをしていきたいと思います。

わたしは自分の中で、『必要なことが必要なタイミングで起こる』など、いろんな設定をした世界で生きるようにしています。

「ん?設定した世界…?」意味不明…、あやしい…などと思った方もいるかもしれませんが(笑)、これがわかってくると孤独の不安や恐れにも囚われにくくなると思うので、そんなちょっと変わった話を交えながら書いていきます。

わたしの変化の体験談が、あなたらしく生きるヒントにつながればうれしいです☺

よかったら vol.1 からどうぞ👇



🔶友達や特別な人はいなくてもいい

vol.1~5まで書いてきましたが、ここまでの内容から、「いっそのこと友達なんていない方がいいのかもな…」と、思った方もいるかもしれません。
でも わたしは、「いないとダメ」「いるとダメ」という2択の選択ではなく、「いなくても良いし、いても良い」という考えがちょうど良いと思っています。

「適当だなー」というお声も聞こえてきそうですが、今の世の中は「どちらかが正しくて、どちらかは間違っている」「○○すべき」などという、偏った答えを求めすぎて窮屈になっているように思います。
大抵のことは適当くらいがちょうど良いんですよね。

ですが、適当というのは他者をぞんざいに扱うこととは全く異なります。
『良い意味であきらめる=執着を手放す』という感じです。
そのあたりの勘違いは されないようにお願いいたします。


🔶批判的にならなくてもいい

冒頭でも少し書いたように、今のわたしのベースにある考え方は、「すべてのことに意味がある」「必要なことが必要なタイミングで起こっている」といったことです。
だから、「友達がいないときがあってもいいし、いるときがあってもいい」と思っています。

先ほど『他者をぞんざいに扱うこととは異なります』と書きましたが、もし、仲の良かった友達から距離を置かれたり、逆に自分から距離を置きたくなった場合、「こんなやつ友達じゃない!」などと相手を批判したり、自分のことを「わたしってダメな人間なのかな…」と自己否定をしてしまいやすいと思います。

ですが、「こんなやつ!」と他者に怒りの気持ちをもって批判することはしなくていいし、もちろん、自分への批判をすることもしなくていいと思っています。


🔹感情に囚われず俯瞰してみる

「いやいや、批判が必要ないと言われても…友達関係が終わるくらいの大きな出来事が起きたら、批判的になって怒ったり悲しんだりするのが普通でしょ!」と思われた方も多くいらっしゃると思います。

じゃあ一体どうするのか…?
というと、映画や夢を見てるような感じで 感情に囚われずにその事象をみていくのです。
夢を見ているときって自分が主人公だけど、映像を見ているかのように自分のことも違う視点から見ていますよね。そんな感じです☺

そして、「なんでこのようになったのか」「このことからどんな学びがあるのか」…などと発展させていく感じです。
「これってどうなんだろう?」と違和感や疑問が感じられるようになってくると囚われから抜け出しやすくなっていきます

『感情に囚われる』というのは、怒りや悲しみの感情に翻弄されている、感情の渦にのみ込まれて周りが見えなくなってしまうということです。
過去を振り返って怒りが増してきたり、友達がいない未来を想像して悲観してみたり…、というのは 今この瞬間今ここに自分が存在していない状態です。


🔹わたしのわかち合い:体験談

わたしは依存の問題によって自分と深く向き合うようになってから、自分の思考パターンや物事の捉え方、精神面、価値観など、生き方自体が大きく変わったことで、『他者とのずれが いろんな面で大きくなっていった』ことが要因だと思っています。

以前は楽しめていた会話が楽しめなくなっていったのです。
会話がすれ違ってしまうというか、波長が合わない感じになりました。

それでも友達を失いたくなかったから、楽しいフリをするようになったら、さらに楽しめなくなっていき、友達と会った後には疲れを感じるようになってしまいました。
そんな人と会話をしていたら、やっぱり相手にその雰囲気は伝わるし楽しいと思ってもらえないですよね。

また、物理的にも距離が離れたり、お互いにいろいろな事情が重なって、自然と連絡を取らなくなっていったと わたしは思っています。


🔹自分がどんな世界を設定しているのかに気づく

友達関係が終わるというのは寂しいことですが、それは、友達がいなくなることが寂しくて怖いことだと設定されている世界で生きているということでもあります。

だから一緒にいても楽しいと感じられない関係性であっても、自分を偽ってでも執着したくなってしまうんですね。

「いやいや、わたしは友達がいなくなることを寂しいと思えない、そんな愛のない人間にはなりたくない!」
そんな風に思われた方もいらっしゃるかなと思います。
そうですよね、とても冷たく感じられますよね…。わかります。

(自分軸で生きられるようになっていくと、自分が冷たい人間になったのかなと思うことがあります。この話もいつか…。)

ですが、変化があればそれに伴って人間関係の変化があるのは当たり前のことでもあります。


🔹わたしのわかち合い:体験談からの気づき

先ほどの『わたしのわかち合い』を冷静にみて、わたしが違和感を感じたところを淡々とあげてみますね。

🔸自分が楽しめない、相手に楽しいと思ってもらえない、会うと疲れてしまう関係性って自分にとって本当に必要なの?!
相手にも失礼じゃない?!

🔸お互いにとって楽しい時間が過ごせないのであれば、それはお互いの時間を無駄に奪い合っているだけだよね。
それぞれがもっと有意義な時間を過ごせるはずだよね。

🔸これって『楽しい時間をともに過ごすための友達』ではなく、『孤独になるのが怖いから友達としていてもらっている』ってことになってない?

🔸相手の幸せ、自分の幸せを本当に願うのであれば、このままの関係性を続けていくのってどうなのかな…?

ここには相手を否定する感情も、自分を否定する感情も存在していません
その代わり、相手も自分もどちらにも有意義な時間を過ごしてほしい!という相手も自分も大切に尊重する気持ちがあります。

以前のわたしは『友達がいなくなる=孤独・寂しい・恐怖』への囚われから、本当に相手と自分を大切にするということの本質がわからなくなっていた(そもそも知らなかった)んですね。

相手に無理に合わせるでも、自分に合わさせるでもなく、お互いが今のお互いを尊重することができるようになれば、人間関係はもっとシンプルで軽やかなものになっていくと思います☺


🔶友達がいないことも素晴らしい経験

ずっと書いているように、友達や特別な人はいてもいなくても良くて、いなかった人に新たに友達ができれば、世界が外側に広がっていく体験ができるだろうし、いなくなった人にはスナオイロのテーマでもある『内なる旅』でアイデンティティの探求に時間やエネルギーを費やすことができます。

どちらであっても自分を信頼できれば、楽しく素晴らしい経験ができることは間違いなく、友達がいなくなったことに関していろいろ言う人もいると思いますが、失敗でも恥ずかしいことでも なんでもないのです☺

ちょっと話が逸れますが、日本は鎖国をしたことで独自の文化がより発展したとも言われていますよね。
そして、江戸時代は貧しかったのに幸せな時代だったとも聞いたことがあります。

それは今のような勝ち負けの競争世界ではなく、自分たちらしく生きる精神性が重んじられていて、『ない』ではなく『ある』に意識が向けられていた、精神的に豊かな時代だったのかな、なんて思います。

ちなみに離婚も多かったらしいです。
やはり人への依存・執着があまりなく、精神的に豊かで精神的自立ができていた時代だったんでしょうね。

自分自身にとっての『鎖国』のような、友達がいない期間を過ごすことは、内なる自分に意識を向けて、本来の自分を探求していくための良い機会にもなります。

自分がそのことをどう捉え、どう生かすかです。
その状況・環境だからこそ学べることが必ずあるのです☺


🔶vol.7 へ続きます

まだ続くみたいです…。笑
他のことも書きたいので、あと1,2回くらいで終わりにしたいところですが、どうなることやら…。

でも今回は、ようやく心が軽やかになっていく方向へ話が進められたかなと、わたしなりに思っているので良かったです◎

タイトルにした『孤独感を手放した先にある自由』を感じられるようになった話で ちゃんとまとめて終わらせたいな。
拙い文章ですが、またどうぞご覧くださいませ☺

ありがとうございます! このnoteを良いな♪と思っていただけましたら、サポートをよろしくお願いいたします☺