断捨離のすすめ
断捨離はいつも、ぬるっとはじまる。
さあ、いらないものを捨てよう!とか、
よけいなものが増えすぎたから減らそうかとか、そんなふうに頭で考えてはじまったことがない。
あるときふと、部屋の中に急に居心地の悪さを感じて、いてもたってもいられなくなるのだ。
なんでわたし、こんな目立つところに特に好みでもないタペストリーを飾ったのだっけ
とか、
この服、肌触りがこんなに悪かったっけ、
とか。
いままでなにも気に留めずにそれらのものを近くに置いてきたはずなのに、違和感を見つけたらその場で捨てるしかできなくなってしまう。
断捨離は、ふと気づいてしまったら無視できなくなるような居心地の悪さからはじまるのだ。
なんだか知らないけど、学生の頃からずっと20年以上愛用していたベッドを急に捨てたくなった。
廃棄業者に聞いたら、そんなに長い間同じベッドを使っている人もそんなにいないですねと言われた。
その通りだと思う。
物をすぐ捨てるわたしが、そんなに長く使い込んでいたのだから思い入れがあったはずなのに、捨てたらびっくりするほどすっきりした。
リビングのタペストリーを張り替えて、ソファのクッションを3つも捨てた。
そのクッションもずっとお気に入りだったのに、寝転がって本を読んでいると急にカビの匂いがして、なぜ今までこの不快さに気づかなかったのだろうとびっくりした。
捨てたらソファが広々としたし、なぜわたしはいままでこの半分しかないせまいスペースで、クッションに遠慮しながらくつろいでいたのだろうとおかしくなった。
クローゼットの中の服をほとんど売った。
都内に住んでいた時に一軍でいつも着ていたお気に入りのコートが、とんでもなく重くてびっくりしたからだ。
肩の関節が少しも動かせないので鉛を着てしまったのかと思った。
引っ越してから深く息が吸えるようになったのは、こんなに重たい服を着なくてよくなったからだった。
ブラック企業で働いていた友人が言っていたけど、その環境にいるあいだは、人は異常さに気づけないのだという。そこから抜けて、その環境を外から見てはじめてわかる。本当にそうなんだと思った。
わたしは軽い服を着るようになって、どんなに着なくてもいいような服を自分自身でわざわざ選んで着て、体をこわばらせて生きてきたか知った。
過酷な環境が当たり前になっているときは、それ以上に快適な世界があると知らないのだ。
服を捨てる時には基準がある。
こんまりさん風に言うと、「ときめかないとき」
的を得すぎて、それ以外の表現が見つからなくて100回頷いた。
↑紹介するまでもないほどに完膚なきまでに完璧な片付けの殿堂入り本
「まだ着れるかも」でも、「着回しできるかも」でもないのだ。
服に対してときめかなくなったとき、同時にその服は自分に似合わなくなっている。
似合わない、というのは決してネガティブな意味ではなくて、卒業なのだと思っていて、だいたいは自分が成長して、今までの服がふさわしくなくなってしまった時だ。
その服を着ている自分が魅力的に見える時、その服のランクと自分のランクが合っているのだ。
服を捨てたくなる時は、もっといい服が似合うようになったり、もっとランクの高い値段のものや、質のいい生地の服が似合うようになっている。
ときめかなくなった服を捨てて、クローゼットががらんとしたころ、なんの気無しに街をあるいているだけで、今まで値札を見るだけでスルーしていたお店の服が急に気になったり、しっくり着れる自分になっていることに気づくだろう。
お金持ちの人が書いた本や、幸せのコツ、みたいなことを語る人が、断捨離について口を揃えて耳にタコができるほど言っていることは
出さなければ入らないし、出すとそれ以上のものが入ってくることだ
これが断捨離の本質中の本質、真理だと思っている。
大事なことは、入ってくるものを待っているだけで、今持っているものを握りしめていたら、なにも入ってこないことだ。
なにもかも持っていることはできなくて、必要のないものとの別れが先なのだ。
手放せる人、執着を持たない人、握りしめない人。
そんな人は、わたしの知る限りみんな豊かに生きている。
今の空間や環境や、もっているものは自分に見合っていて、ふさわしいのか
それをあらためて問い直すことができるので、断捨離がすきだ。
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