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誰かを救いたいの意味


数年前から、

人を救いたいと言っている人は自分が本当は救われたいと思っている、

というような話を有識者の方などからたまに聞くことがあった。

「人を救いたい」「誰かに手を差し伸べたい」と思う人は、本当は自分の中に傷を抱えていて、同じ傷をかかえたクライアントと引き合って自分自身に癒しが起こることがあると。

傷ついたことがない、傷がない人間なんてひとりもいないと思うけど、それでもある程度癒されていて、納得して自分を生きることができている人は、自分から誰かを救いたいなんて思わないのだ、と。

だし、「誰かを救いたいなんて傲慢だ」とさらに過激なニュアンスで言っていた人もいたかと思う。

わたしは福祉の仕事をしていたので、その思いの真ん中にはもちろん「困ってる人を救いたい」があったと思う。それはどこから湧いてくるのかよくわからないけどわりと強い思いで、まるで自分がすごく高尚な奉仕精神をもった素晴らしい人間みたいに思うこともあった。

そのどまんなかの自分の生き方そのものみたいなものを、ぶっとい槍で突き刺されたみたいな気がして、にわかに受け入れがたかったので一度その数人の方々から聞いた概念は、自分の中でなかったことにした気がする。

今、福祉の仕事をやめてみて、あの話は本当だったな、と思う。

わたしは癒されたかったし、救われたかったのだ。きっと。

この仕事をしていていろんなことを考えた。

わたしが困っている人を救えるのは、「救いたい」と思っているわたしがいるからで、それはわたしが自分のために「困っている人」を生み出していることにほかならないだろうか、と。

無意識では「困っている人」がいなければ、わたしはこの自分がすごく好きで楽しいと思っている「困っている人を救う」という仕事ができないのだ。それってなんか変だなと思っていた。

「人の不幸で飯を食う」じゃないけど、困っている人なんて、本当はいないほうがいいのだ。

それなのに、わたしはその困っている人を救いたいと思っている。

ここら辺まで考えてよくわからなくなったので、考えるのをやめたけど。おそらく読んでいる皆さんもなにをいってるのかよくわからないと思う。

悩み事を聞く人(提供する側)と、クライアント(される側)の間で、おなじ傷同士が引き合って癒しが起こる、というのはそのとおりで、とても実感することだった。

仕事で出会う「困っている人」は、わたし自身が困っている課題や、悩んでいる課題とリンクしていて、自分が相手に対して解決策を伝えているはずなのに、自分自身の話している言葉そのものに、わたし自身が癒やされているのだ。

自分で話している言葉なのに、「あ、そうか。そうすればよかったのか。」と解決策が見つかったり、「本当はそう思ってたのか」と自分の本音に気づいたりするような、不思議な体験は何回もあった。

これはもしかしたら、カウンセラーとか、人の困りごとを聞く仕事などをしたことがない人にはわからないかもしれない。

この経験を通してわたしは、「答えって結局自分が持っているんだな」と思ったし、それを引っ張り出してくれているのは目の前にわざわざ現れてくれているクライアントさんなのだ。

だからわたしは、救っているつもりで救われていることの方が多かったし、この仕事でたくさん癒されたことはぜったいに間違う余地がない。

わたしにはきっと癒しや救いが必要で、だからわざわざ自分とおなじような課題を抱えた人たちを救う必要があったのだ。

と、ここまで考えて、わたしには以前、自分の傷を癒すために福祉の仕事が必要だったけど、

でも今は、必要ないんだ、と思えた。

もう誰かの傷に自分の傷を投影して、むやみやたらに誰かを救わなくても良いくらい、わたしは癒されたのだとなんかどこかで腑に落ちる部分があった。

わたしが救わなきゃ、となにかに突き動かされるみたいにひたすら誰かのためにこの仕事をしていて、そういう自分が好きだったころの、あの感覚が不思議なくらいどこにもないのだ。

なんか今、人生一からっぽな気分なので、(リビングもからっぽだし)

なんにも浮かんでこないけど、とりあえず朝っぱらから意味のわからないnoteを書いている次第である。



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