愛か恐れかの話
じつは、人間がなにかを選択するとき
取る行動はふたつしかないのを知っているだろうか。
それは愛か、恐れかだ。
愛から選ぶか、恐れから選ぶか。
行動原理はこの二つしかないというのである。
そしてわたしたちはほとんど、
「恐れ」から物事を選んでいる。
仕事をやめたらお金がなくなるかも、という恐れ
離婚したら世間からなんて思われるだろう、という恐れ
人から嫌われたくない、という恐れ
どうだろうか?
わたしはめっちゃ昔、この選択をしていた。
恐れから何かを選ぶと、いっときは自分がすごく大事にしたかった安心が手に入ったように感じるけど、ずっと心はモヤモヤしていて、自分を生きていないような感じがして、その先もずっとその恐れは続いていく。
体は収縮していて、呼吸は浅くて、楽しくもないし、何も問題は解決したような感じがしないし、ただ「安心を手に入れようとするため」だけに生きていくことになる。
そこでなにかを変えなければいけない、とちがった選択ができるようになればまだいいのだけど、ほとんどの場合なにか取り返しがつかないことにならないかぎり、場合によっては精神を病んでしまったりするときまで、恐れから選び続けてしまう時がある。
それほど「恐怖」というのは、人を支配しやすいのだ。
だとしたら、愛からなにかを選ぶというのはどんなことだろうか?
人から嫌われたとしても、自分を尊重して思ってることを伝えるという愛
やりたくない仕事を辞めて、自分に好きな仕事をさせてあげたいと思う愛
うまくいかないときに、少し立ち止まって休んであげようとする愛
大切なものを大切にしたいという愛
つまり愛から選ぶということは、自分を大事にすること、自分への愛から選択するということだ。
わたしは昔、自分のやりたいことがまったくわからなくなって完全に袋小路に入っていて、1年の間に4回も仕事を変わったことがあるのだが、
5回目の仕事が決まった時、心臓がおかしくなって強制的に就職ができなくなった。
ボロボロ泣きながら内定が決まっていた会社に断りの電話をして、なにもうまくいかないうえに体調まで悪くなって人に迷惑をかけるなんて、なんかすごく自分がダメなやつに思えて永遠に泣いた。
実家の祖母に「貯金も別に今すぐなくなるわけじゃないんだから、ちょっとこっちきて休んだら」と言われて、数か月なにもせずに実家でゴロゴロして、おさななじみの友人とお好み焼きを食べに行ったり、すずしいクーラーの下でW杯なんかを見ているうちに、だんだんちゃんと息が吸えるようになって、まともに頭が働くようになってきたのがわかった。(忘れもしないW杯の年で、こういう死にそうになった経験って鮮明に覚えているものだ)
心臓は1回おかしくなったきりで、そのあとはなんともなくて、おそらく極度のストレスだったのだろう。
そのときのわたしは、「いますぐ内定が決まらないとお金がなくなってしまう」というほとんど恐れと強迫観念のようなものから転職活動をしていて、本当は自分が何をやりたかったのかとかも、さっぱりどこかへいってしまって、新しい会社に入っても、まったくうまくいかないどころか悪くなるばかりなことに焦って、ますます「恐れ」からしか物事を選べなくなっていたんだな、と今ならわかる。
そんなとき、「別に今すぐ死ぬわけじゃないんだから」という家族や友人の気楽な言葉がすごく救いになったし、恐れに囲まれている時って、すごく視野が狭くなっている時だと思うから。
「休もう」と思ったのは自分への愛だったし、そこからやっとやりたかった仕事とか、自分の中のやりたい仕事、愛につながる選択ができるようになったのだ。
愛から選ぶとちゃんと楽しくなるし、自分らしくいられる道へつながっている。だから、無理やり恐怖や強迫観念から選ばずに、深呼吸してちょっと長めの休みが必要なら必要なだけ休んで、自分への愛からの選択をしてほしい。
「こうじゃないといけない」は、ほとんどの場合は恐れで、
「これがやりたい」「やりたくない」は愛だ。
何かを選択するときに迷ったとしたら、このたったふたつしかない選択肢を思い出してみてほしい。