なぜ他人からの褒め言葉を受け取れないのか
なんどもいうようにわたしは自分では自己肯定感が低いと思っている。
なんか上手く言えないけど、「勉強ができるから好き」とか「年収が高いから認めている」とかいう類の、条件付きの肯定ではなくて
もっと根本的な、自分自身そのものについての肯定のことだ。
知識とか能力について褒められたとして、「ふーん、まあそうだね」と受け止められるのだが、自分の存在そのものについてはテコでも認められないような、すごく足元が頼りなく感じる、そういう肯定感のこと。
存在そのもの、というのは、なにもがんばっていなくてもそこにいるだけで認められていい存在としての自分のことで
たとえばいくら勉強して知識がついても、経験が積み重なっても、人から感謝されても決して埋まらないものだ。
「いやがんばって役に立ったり価値があることをしている自分はまあ認めるけど、そのままの状態で認められたり褒められていいわけないじゃん」
という、存在としてだけの赤ちゃんみたいに何もできない自分が認められることを、めちゃくちゃ拒否している信念が深層心理に埋まっている。
能力とかでなく存在そのものの在り方みたいなものを褒められるとき、この信念が発動するのだ。
「すごく自信があるように見えるよね」と言われても「イヤイヤそう見えるかもしれないけど本当はそうじゃなくてさ…」とか、
「言いたいことがはっきり言えて羨ましい」と言われても「イヤイヤめっちゃインキャなんだよ。やっぱり本当の自分は伝わらないんだなぁ」とか思っている。
この抵抗はいったいなんなのか?
謙遜とは明らかに違うし、「他人は本当のわたしのたいしたことのなさをわかってないんだなぁ」という、なぜか自分がたいした存在ではないことに対する圧倒的な自信なのだけど
ちょっと離れたところから眺めてみると、わざわざ自分で自分を全力で貶めていて、かなりおもしろいことになっている。
もはや他人に何回も言われるようなことであれば、その人たちの目に映るわたしはまちがいなく「自分に自信があってはっきり自己主張ができる人」なのだからそれでいいと思うけど。
「イヤイヤそんなことないんだよな…」と言いたくなるこの抵抗は、最初から自分のものだったわけではなくて
幼少期に「そのままではダメなのよ。あなたはたいしたことないのよ」と思わされるような環境にいたことが原因なだけだ。
原因がわかればなんてことはなくて、なんだただの思い込みか、とフィルターを外すことができる。
わたしは最近、「イヤイヤそう見えるんだけど実は自信ないんだよねー」と毎回同じセリフを言っている自分にちょっと飽きていて、「ほんとか?実は自信めっちゃあるんじゃないのか?もうあるで良くないか?」と思っているし
自分で勝手に作った「自信ない設定」の過去の思い込みがそろそろ崩れ去りそうになっている。
そんなことない!と頑なに拒否らなくても、そう見えるならそうなんじゃない?と受け入れただけで絶対もっと楽にテキトーに生きれるはずだ。
結局世界は思い込みの結晶なだけなので。
つぎ言われたら「めっちゃ自信あるんだよねー」って答えてみようと思っている。