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人は”いれもの”のようなものである。

昨日、公開となった映画『君が君で君だ』。
3日前の先行試写にお邪魔したのですが、3日経ってようやく感想がまとめられそうです。

本作の主人公は、一人の女性に魅せられ、その女性を愛するあまり、本来の自分を捨ててしまった不器用な3人の男性です。
自称、彼女を守る「兵士」として、3人は彼女の全てを監視し、彼女の全てを受け入れ、彼女の全てに一喜一憂します。
そしてその歪んだ生活が彼女の幸せとともに揺らいでいく様子を描いた作品です。

この作品には、大多数が共感できるような分かりやすい感想が用意されていません。
なので上映後には毎回会場が妙な空気に包まれるのではないでしょうか。

僕も3日間感想らしい言葉が見つからなかったのですが、今日、おぼろげに昔読んだ『アムリタ』という小説に出てきたセリフを思い出しました。
たしか、記憶喪失となった主人公に恋人が言ったセリフだったと記憶しています。

「君を見ていると、人間っていうものは本当に、”いれもの”なんだ、と思うんだ。」

人は誰しも最初は「空っぽ」の状態で生まれます。
そして日々の中で出会った忘れたくないものを一つずつ自分の中に取り込んでいき、やがて自分という”いれもの”を大切なもので満たしていきます。
『アムリタ』を読んだ当時、僕は「人はいれもの」という言葉をそう解釈しました。

この「人はいれもの」説を通して見ると、『君が君で君だ』に登場する3人の男は、ある日突然、自分という”いれもの”をひっくり返し、空っぽにし、そこに「あの人の大切なもの」だけを注いでいました。たった一つの「愛しい」という理由だけで。
では、自分ではなく「あの人」の大切なもので満たされた”いれもの”は、果たして「誰」と呼ぶことが出来るのでしょうか?
主人公たちが自称するように、尾崎豊や兵士、もしくはあの人自身だったのでしょうか?

今回、『君が君で君だ』を観た僕の感想を一言でまとめるとこうなります。

人は”いれもの”のようなものであって、決して”いれもの”ではない。

何かによって満たされていくという点、そして、その満たした何かにこそ価値があるという点で、あたかも人は”いれもの”そのものに見えます。
しかし、人は”いれもの”ではありません。何故なら、自らにその何かを注ぐことが出来るからです。

「あの人が好きだと言っていた男に成りきる」と決めた日のこと、「あの人を守る」と決めた日のこと、「あの人の決断を尊重する」と歯を食いしばって言葉を飲み込んだ日のこと。
物語の合間に投影される過去の3人は、自らの意思で、必死にあの人を自分という”いれもの”に注いでいました。
そしてそんな彼らの姿は、兵士でも尾崎豊でもなく、身を焦がす恋と自らの弱さの間で悩み、のたうちまわる純粋すぎる若者たちでした。

10年という歳月は、”いれもの”の中身を全く別のものへと変えるのに充分すぎる時間です。
きっと、注ぎ足しで続いている鰻屋さんの秘伝のたれですら、壷の中にあるのは、10年前と全く異なる液体なのではないでしょうか。
でも、例えば鰻屋さんのたれの「味」のように、その”いれもの”の持ち主が信じた「何か」だけはきっと変わらないのだと思います。
物語の終盤でボロボロになった3人が出す答えがそれぞれ違っていたように、最初に信じた「何か」は、たとえ”いれもの”がひっくり返っても、粉々に割れても、きっとそこにあり続けるのだと思います。

『君が君で君だ』は、観た人の”いれもの”に何を注ぐのか予想できない映画です。
また、観るたびに違う答えを持ちそうな気もしています。
今回の答え合わせのために、また数年後、もう一度観ようと思っています。

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