鏡の中の自分を見て、びっくりするという話。
有名なアパレルメーカーのCEOを勤め上げたあとでリタイアした、70代の女友達と、カフェでおしゃべりをしていた。
聞くと、最近新しいボーイフレンドができたのだそう。
「とっても素敵な人よ、ユーモアがあって、知的で、親切よ」
すっぴんで、目の周りの笑い皺をたくさん寄せながら、彼女のよく動く、はしゃいだ瞳を私は見つめた。
「でもね~、」
と彼女は一息ついた。
そして囁くように言った。
「彼って、すごくオールドなの!」
そう言って、彼女はからからとカフェに響くような声で笑った。
聞くと、年齢は彼女とそう変わらないらしい。
でも、彼女には若い友人が多くて、数年前に里子として引き取った、二人の10代の女の子と暮らしている。
そんな環境だからかしら、
彼を見てると、「オールドだなあ」って思っちゃうのよ、
自分だって、鏡を見たら、「あら、私だってオールドだったわ」、ってびっくりするんだけど。
そう、彼女が言ったときには私も思わず吹き出した。
そう言えば、私にも同じような経験があった、と、思い出した。
数年前、レストランとは別に、私と夫は車で30分ほど行った、山を一つ越えたところにある隣町で、小さなラーメン屋をやっていた。
その町で、20代の元気な子たちを数人雇い、私もしばらくの間、毎日通って、一緒に仕事をしていた。
小さな町で、人々は田舎暮らしを楽しむ人が多く、7月4日の独立記念日の一番のイベントであるロディオの日は、町中が盛り上がった。カウガールやカウボーイが今も、活躍する町だった。
私はその町でラーメン屋をしているのが好きだった。
キッチンのスタッフは、皆んな楽しくていい子たちだったし、小さな町ならではで、馴染みのお客様もすぐについてくれ、数席しかない店内は居心地が良かった。
そうそう、働いてくれていた子たちがみんな、ジブリの大ファンだったので、店はいつのまにか、ジブリがテーマになった。
ダイニングの大画面では、いつもジブリの映画が流れていたし、壁にはスタッフが仕上げたトトロや、ナウシカのジグゾーパズルが、額に入って飾ってあった。
確か、カオナシの人形や、ネコバスなんかの小物も置いてあった。
店はじきに、スタッフだけで切り盛りしてくれるようになったので、彼らに似合った店にすればいいな、と思ったのだ。
さて、ラーメン屋を始めてしばらくしたころだった。
私は仕事から家に戻って、バスルームで顔を洗おうとした。
明るい、大きな鏡の中の自分をふと見た。
そして、まじまじと再び見た。
すっぴんの私の顔、
そして、半そでTシャツから伸びた、私の腕。
「私って、黄色い」。
驚きとともに、そう、気づいた。
アメリカ、カリフォルニアで暮らして、30年を超えるけれど、これまでに自分が黄色い、なんて こんなにしみじみ思ったことはなかった。
よく知られているように、カリフォルニアというところは、人種の坩堝だ。
たくさんの人種の人がいる。
たくさんのカラーがある。
サンフランシスコほどではないけれど、私の町でもメキシコ人をはじめとする、ラテン系、インド人、アジア圏の人も多く住んでいる。
それが、ラーメン屋のある隣町は、そういえば白人の人だらけなことに、私は気が付いた。
働くスタッフも、それぞれの顔を思い浮かべると、みんな白人だった。
そのことに気が付いたのは、鏡の中の自分を「黄色い」と認識した後で、それまでそんなことを考えたこともなかった。
「へえ~、私ってやっぱり黄色いんだな」
それは なんだか楽しい再発見だった。
それにしても私は、無意識のうちに自分の肌も、彼ら同様「白い」と錯覚していたのだろうか?
自分の瞳は、常に相手を映している。
自分の顔は、鏡というツールを通してでしか見ることができない。
それはいったい、どういうことなんだろう、
と、それから、私は時々考えた。
こんな言葉に出会ったのは、この「黄色い自分」体験のずっと後だった。
たまに見る鏡の中の自分の顔に比べて、1日の大半は、私の瞳は相手を、まわりの風景を映している。
私は時々、鏡の中の自分をちょっとだけ疑うようになった。
レコーダーで聞く自分の声に違和感をもつように。
前述した友人も、若い人たちに囲まれて暮らし、年を重ねた自分を鏡で見てびっくりするという。
私たちは普段は、お互いに顔を代えっこしている。
私は相手の顔を見、相手は私の顔を見ている。
自分の存在を消して、相手のための空間として在ること、それが愛の基本なのだ、と、ダグラス・ハーディングは書いていた。
そのように、私たちは創られているのだと。
後日、友人が、新しいボーイフレンドを連れて、私の店に食事にやって来た。
彼女と同じように、優しい笑い皺の多い人だった。
見つめあう二人の瞳に うっとりした。