連続なおぽんテレビ小説「10年後、あなたは母になる」一部第5話
10年前、私はひとりのサラリーマンと出会った。
健康診断で子宮がんの可能性があると通知を受け、健康な人生にも終わりがあることを初めて意識したときだった。
「楽しければ良い」という生き方は清算し、現実に向き合おう。
素直に湧き上がった「もう一度結婚して今度こそは子どもが欲しい」という夢の実現へ、人生計画を立て直そう。
問題は手順だった。
芸人がすんなり関係を終わらせてくれるか、わからない。
出て行ってくれても、高い家賃をひとりで払わなければいけないなら、夜のバイトは辞められない。
こちらが引っ越すと言っても、今や貯蓄は空っぽで動けない。
何事も、始めるより終わる方が、何倍も難しい。
はじめの一歩を踏み出せず、頭の中でモヤモヤは続いた。
目が醒めた後は、「なんでこんなことをしているのか」と自分への情けない思いが襲い掛かってきた。
鏡に映るのは、似合いもしない真っ赤な口紅を塗ったマオ、いや、私だった。
昼の仕事を終えると、打ちひしがれて、西新宿の店のソファに座っていた。
他の子は、慣れた手つきでせっせと客に営業メールを送っている。
私は、そうするフリをしながら、ぼんやりと画面の向こう側を見ていた。
そこへ、会社の上司や取引先の客たちを、ぞろぞろと引き連れてきたのが、「サラリーマンの男」だった。
身長はヒールを履いた私より低く、ベルトに腹の肉がのっていた。
男は終始、盛り上げ役に徹し、他の席の客に気を遣うこともなく大きな声で笑い、勧められるまま浴びるように酒を飲んだ。最後は店のソファに倒れ込んだ。
ママが、おしぼりをギュッと絞って、男の額に乗せた。
「可哀相な人なのよ。先日、やっと離婚調停が終わったんですって。2人のお子さん連れ去られてしまったみたいで」
ママは、気の毒そうに見下ろした。「わかる気はするけど」
ごろりと寝返りをうってソファに突っ伏せた熊のような男を見て、私はこれまで無理に笑顔をつくってきた自分を重ねた。
その時はまさか、この男と結婚し、2人の子どもが生まれるとは思いもしなかった。
年末だった。
互いに仕事が休みに入るので、飲みに行かないかと誘われた。
初デートで有楽町の居酒屋に行った日、突然「一緒に住もう」とマンションのカギを渡された。
向き合って酒を飲んだだけで、つき合うとも話していない。
けれど、私はちょうど、今の家を引き払って新しい家を契約するにも、お金がないと悩んでたところだった。
神様がくれたチャンスだと、前向きに捉えた。
その一ヶ月後には、実家に連れて行かれた。
紹介された家族、兄弟は怪訝そうな顔つきで私を見た。
少し前には、前妻とその子どもたちがここに来ていたのだろう。
私だってどんな顔をしてそこに居たら良いのかわからなかった。
精一杯、笑顔を取り繕って、挨拶をした。
そのとき私は、彼の実家に泊まった。
夜には、家族からの苦言に不機嫌に怒鳴り返す彼の声が、隣の部屋から聞こえた。眠れなかった。
何もかもが、めちゃくちゃなペースで進んだ。そんな常識外れな強引ささえも魅力的に思えた。
でっぷりとした体は、優しさや人間の器の大きさの象徴のように思えた。
少なくとも、6桁の給与明細をもらってくる普通のサラリーマンだ。
3桁の明細をもって寝転がっている芸人とは違う。
それだけで、安心感があった。
すべての荷物をまとめ、最後の家賃を払って家を出た。
芸人は、すんなりと次の寄生先を見つけたようだった。肩の荷がおりた。
新しい人生、輝かしい新しい生活が始まるのだ。
期待に胸を膨らませ、彼の家に暮らし始めた。
そして、暴力の日々が始まった。
(第一部、終了)