「想定外」が人生をおもしろくする
「辻仁成のブログがおもしろい」と、しばらく前から、夫がよく話していた。
移住先のパリで、50歳を過ぎてシングルファザーとなり、むずかしい年頃の息子と2人で暮らす悩みや不満を吐露しながらも、それでも毎日せっせと料理をする姿に、胸が打たれるのだという。
誰かのブログを購読する習慣がどうも身につかないわたしは、コーヒー休憩のたびに夫から話を聞かせてもらい、人生後半の悲哀が見え隠れするその内容について、「なるほど、それはなんとも味わい深いなぁ」としみじみしていたら、あれよという間に料理本が出て、とても売れているようだ。もちろん夫も買ったから、わが家にもある。
その本の発売と前後してNHK BSで放送された番組も、夫婦で観た。
好評だったのだろう。すでに続編も放送が予定されているらしい(夫からの情報)。
番組を観たことで、かつて自分が辻仁成という人に抱いていたイメージが、いい意味で裏切られた。
昔は、なんとなく気取っている印象があったのだけれど、もうカッコつけないし(いや、本人の意識がどうかはわからないが)、現実のしょっぱさが前面に押し出されていることで、気取ってるとかカッコつけてるとか、こちらが思う隙もない。でもそういう姿が逆にチャーミングで、前よりずっと魅力的な人物像として映った。
人って意外とそういうものかもしれないな。
がんばってカッコつけている姿より、どうにもカッコつかない姿の方が、他人からは愛おしく見えるし、かえってその人の魅力が浮かび上がる。
そういえば、わたしの大好きな映画にも、まさにその法則が描かれているものがあったのを思い出した。
もう20年も前のドイツ映画『マーサの幸せレシピ』である。
主人公のマーサは、腕は一流だけれど完璧主義すぎて、客とも同僚ともなかなかいい関係が築けない、ストイックで気むずかしい美人シェフ。
正反対のキャラのイタリア人シェフ、マリオと出会ったことで、彼がマーサのガチガチに凝り固まった心を徐々にほぐしていく。
マーサは当初、ユルすぎ、ってくらいのマリオに反発しまくるのだけれど、そんなマリオ相手に真面目に怒ったり、その後に自己嫌悪したりする姿がなんだか可愛らしくて、そうした魅力はすべてマリオによって引き出されたものだった。
彼女の内面の変化は、表情や行動にも現れ、最後のシーンでのいきいき感は、映画の冒頭で登場した女性と同一人物とは思えないほどだった。
頭でっかちな10年でよかったこと
わたし自身、最近は「自分のつまらないこだわりなんて、持たない方が断然ラクだな」と感じている。
わたしは誰かから「あなたは文章が上手いから何か書いてみなさいよ」と声をかけられたわけでもなく、自分が書きたくて書き始めた人間なので、だからこそ、「自分が書くべきテーマ」や「自分らしい文章」といったものへのこだわりが、フリーになった当初からそれなりに強かった。
その自意識によって、たとえば雑誌の取材依頼をいただいても、著作のプロモーションにつながりそうなテーマでなければ、「ただ露出すればいいってわけでもないし」と見送らせてもらったり、ライティング仕事のオファーにも「そんなにゴリゴリの実用的なタイトルの本は、自分が書かなくてもいいんじゃないか」という判断で断ってしまったり。
そうした頭でっかちな過去の自分にうんざりもするけれど、言い訳させてもらうと、けっして驕っていたわけではない(そうなれるほど売れっ子の人生を歩んではいない)。
遠くにぼんやりとかすんで見える、なりたい自分に近づくために、この仕事をするべきか、しないでいいのか、そのときどきで真剣に考え、悩み、迷ったうえで、お断りしていたのである。だから、青くさかったとは思うけれど、後悔はしていない。
そういう時期や段階を踏まなくては、今のわたしの精神的境地に至ることはなかったと思うから。
で、その現在の精神的境地(主に仕事において)はどんなかというと、10年前にくらべて、ずいぶんこだわりがなくなった。もちろん、いい意味で。
理由はまず、頭でっかちなりに、この10年で自分がやりたいことをやりたいかたちでやってきたため、現状とくに不満がない、というのがある。
もちろん、もっと本が売れたらいいなとか、望みや課題はいろいろある。けれども、とにかく現在の自分の立ち位置は、自分の思うように生きてきた結果たどりついた場所であり、誰かのせいでとか、あのときのあれのせいで、といったことはまったくない。そのときどきでいろんな、たくさんの人に助けられながら、自分が進みたい方向に進んできて、今ここにいる。
それを実感しているから、これからは肩の力を抜いて、どういう方向へ自分が転がっていくのかを、純粋におもしろがれるのだ。
また、イヤなことが起こらない相手としか関わらずに生きられている、というのもある。
これは不安定なフリーランスが持ちうる大きな特権で、なんとなくイヤな予感がしたら、たったそれだけの理由で(もちろん相手には他の理由を伝えた方がいいけれど)、仕事を断ってもかまわないのだ。
くわえて、自分が「イヤなこと」と認識するラインも以前よりだいぶゆるくなっているから(人はそれを「歳をとって丸くなった」ともいう)、どんな仕事でも、耐えられないほどイヤなことはそうそう起こらない(それでも、時々は起こってしまう)。
自然にわいてきた「要望に応えたい」という気持ち
自分からやりたいと思ったことだけでなく、誰かの要望や期待に応えることにも、大きな喜びを感じられるようになる。
たとえば、今年の夏から秋にかけて、家事をテーマにアイデアを公開した記事も、10年前なら、「わたしは家事のプロでもないし」などと理屈っぽく考えて、躊躇していたかもしれない。
でもそんなこだわりを捨てて、とにかく求められる期待に応え、読んでくれる人の役に立つものを書くことに注力してみれば、「実用的で参考になった」という好意的なメッセージも届き、とてもうれしいのだ。
単に仕事と割り切って記事を作成したわけでもなく、自分の内に潜む「いいものはみんなに勧めたい」という思いを存分に開花させながら、ウキウキと書いた(だから毎回長い)。
こうした性分に、依頼を受けなければ気づくことはなかったかもしれない。自意識というストッパーを外してみたら、思わぬ収穫があった感じで、いろんな意味で有意義な機会だった。
呪縛から自分を解放してあげる
告白すると、10年以上前、ある仕事で、その分野のプロの方から「プロでもないのに(ただのライターのくせに)プロ気取りで書くな」と叱られた経験がわたしにはあって、そのときの血の気の引くような思いがずっと傷となって残っているところがあった。
その苦い一件以降、「プロでもないわたしがこのテーマで取材を受けて語ったり、書いたりしていいのか」という点を過剰に気にして、結果的にそれがブレーキとなって依頼を断ってしまう、なんてこともあった。
でも、そろそろその経験の呪縛から、自分を解放してやっていいんじゃないかと思っている。ちゃんと実感に裏付けされた言葉なら、プロであろうとなかろうと、読む人の何らかの役には立つだろうから。
気づけば、前半に挙げた例から、つながっているような、脱線したような流れになってしまったけれど、とにかく人生の折り返しを過ぎると、自然に肩の力もゆるみ、いろんな「想定外」をおもしろがれるようになるのかもしれないなぁ、と思う。
そうなってからの自分に、さて、どんなことが起こるのか。
風の時代は、なるべく柔軟に、流れに身を任せて生きてみたい。