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菅田将暉の「今の時代っぽさ」にワクワクが止まらない

映画のプロモーションだと十分わかっていても、連日ありとあらゆる番組に菅田将暉くんが出演しているのを見ては、ウキウキしている。

日曜夕方に『笑点』まで出てきたのは、本当にびっくりした。ここまで幅広い層に向けて、なんでもイヤミなくさらりとやりこなせちゃう若者、他にいるか? これまでいたか? 
つくづく「マルチ」なんて陳腐な言葉ではくくれないほどの多才ぶりに、惚れ惚れしてしまうのだ。

ルックスがよく演技力もある人、というレベルまでは他にもいるのかもしれない。
けれど、若くても独自の空気感をまとっていて、ギターも歌唱も曲作りもできて、しゃべったらおもしろく、おしゃれで着こなし上手で、おまけに自らミシンで服まで縫っちゃうという。
多趣味でこだわり屋のちょっとアクの強い俳優なら、わたしと同世代でも何人か浮かぶけれど、バラエティやトーク番組、さらにコントまで楽しげにやってのけちゃう柔軟さは彼らになかった。いや、あったのかもしれないけれど、世間がそこまで求めなかった。でも今は、器用で感じもよくて、能力が全方向にバランスよく高い、そんな人がメディアで活躍している気がして、それがすごく今っぽくていいなぁって思う。

アーティストだって「いい人」の方がいい

わたしが社会に出て新人として過ごした1990年代後半は、ファッション誌やカルチャー誌、インディーズ映画などの最盛期だった。
雑誌編集の仕事を通して、勢いのあるクリエイターの方々と多く関わったけれど、アーティストとしての才能はあっても社会人としてはどうか、という人はたくさんいたし、それを認めて受け入れる空気が、妙にちゃんとあった。
妙に、と書くのは、わたし自身はそれを心から受け入れられると感じたことはなく、むしろそういう人たちと仕事をしなくてはいけない状況になるたびに、気が重く、そして何か腑に落ちない感じがつねにあったからだ。

センスがよければ、わがままで、人を傷つけるような言動をしてもいいの? 
才能があれば、時間にルーズだったり、突然連絡がとれなくなったりしても仕方がないの? 
もちろん、宇多田ヒカルほどの天才アーティストなら、さすがに仕方ないって思うけど(テレビで彼女の密着ドキュメンタリーを見たら、歌詞作りに苦しむあまりレコーディングスケジュールが押しに押し、最後はスタジオに姿を表さなかった、とあった)。どんなに待たされても、みんなが、そしてわたしも、彼女の歌を聴きたいのだから。

わたしより上の世代の人、上司や先輩とかは、当時いっぱいいた「面白いものをつくるけどちょっと仕事しにくい人」こそをアーティストとして認め、彼らに振り回されながらも一緒に仕事すること、そして彼らに仕事相手として認められる自分を誇らしく思っているような印象を受けた。
なんと大人だろうか、とは思いつつ、自分もそうなろうと思えなかったのは、なんとなくそれがフェアな関係に見えなかったからだ。
アーティストは特別扱いされるべき存在で、凡人や会社員は、彼らの苦手な社会人としての常識の部分を補完する役を引き受けなくてはいけないのか?という疑問。
編集者という職業柄、多少そうした役割を担う部分はあるにせよ、「アーティスト」、だけど、いや、だから?「コミュニケーションが取りにくい」、いやもっとシンプルにいえば「感じよくない」みたいな人が苦手だった。仕事なんだから、お互い大人なんだから、できるだけ気持ちよくやりたいし、いい空気感の中でいいものをつくりたい、ってずっと思っていた。

それに、そうした「仕事しにくいけれど作品性が時代と合っていて人気がある人」がいる一方で、「これだけちゃんとした人だからこそ、第一線で長く活躍しているのだなぁ」と納得させられる人だってもちろんいた。
わたしが尊敬するクリエイターの人たちは、写真家でもスタイリストでもヘアメイクアーティストでもデザイナーでも、みんなその後者の方だった。仕事がしやすいというだけでなく、「ちゃんとしてるいい人」が作るものに、心が動かされた。

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暮らし・仕事・おしゃれ・健康を題材としたエッセイ(平均2000字)が28本入っています。

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