解像度、上げるべからず【短編小説】
私、実はこういうわけで欲求不満です。そう公言することがはばかられる類の欲求不満というものがある。
私にとっては、「素朴な、しかし提起すべきでない疑問」がそれにあたる。
決して表に出してはいけない、心の声。
* * * * *
数日前に梅雨入りした割には、ぼんやりとした薄曇りの土曜日。母がちゃんとしたお茶っ葉で入れてくれた緑茶をすすりながら、私はひと呼吸ごとに畳の匂いを胸の奥まで吸い込む。2週間ぶりの実家だ。
今回は珍しく、妹の由香と一緒になった。実家も妹宅も、私のアパートから電車で1時間ちょっとしか離れていないが、普段「帰省」のタイミングが合うことはほとんどない。
「眠たいねえ。寝れるかねえ」
歌うようにつぶやく由香。1歳ちょっとの男の子を抱き、ガニ股でソファーに座る姿が新鮮に映る。このソファーに寝そべってダラダラする権利を、彼女と奪い合った学生時代が懐かしい。
上の女の子はダイニングテーブルに身を乗り出し、画用紙に絵を描いている。「魔女」と言って得意げに見せてくれたその絵は、私よりよっぽど上手だ。4歳ともなると、うまい子はうまいんだなあと感心させられる。
由香のところの夫婦はともに休みが不規則だが、今週はたまたま由香が金土と休みになり、昨日から実家に泊まりに来ている。そこへ土日休みの私が先ほど加わったところだ。
いよいよ寝かしつける態勢に入ったのだろう。由香は愛息を抱いたままリビングをゆらゆらと行き来し始めた。その体が、台所で急須を洗う母へと向き直る。
「明日ありがとね。さすがに3連休ってわけにはいかないし、土日に変えてってのもヒンシュクすぎるからさ。ほんと助かった」
「まあ毎週は無理だけど、できるときぐらいはね」
明日は日曜日。由香は朝ここから出勤し、子供2人は母が夜まで預かる手はずになっている。母は専業主婦だが、友達との集まりやら、習い事やら、町内会の役員やらで多忙な日々を過ごしている様子。父は定年を来年に控え、未だ土日もランダムに出勤する生活だ。今日もきっと遅くなるが、由香たちに比べればさほど困ってはいない。
「一応表向き、子持ち家庭は配慮してもらえることになってるけどさ。実態は全然」
由香と旦那さんは、同じ旅行会社の別支店勤務。土日祝日も店舗は営業しているし、旦那さんは添乗の仕事に出ることもあるそうだ。日曜日は保育園がお休みのため、なるべくどちらかが休みを取って子供たちの面倒を見る。それが決して簡単じゃないらしい。
「もう完全に目付けられてるからね、おツボネに」
「でも、その人がスケジュール決めるわけじゃないんでしょ?」
「うん、でもミーティングとかで言いやがんだよね。週末に休み取りたいのはみんな同じなんでーとか何とかさ」
「あれね、学級会みたい」
と、母は笑う。
「取りたいじゃないんだよ、私の希望じゃないの。取らなきゃ子供死ぬんだっつーの」
私たち姉妹と母の3人がそろえば、私は自ずと聞き役になる。記憶の限りずっと続いている位置関係だし、子育ての話は私にはてんでわからないから尚更だ。黙って口の中でお茶を転がし、4歳児が食べ散らかしたお菓子の残りに手を伸ばす。
「休みの日にちゃんと休める人と一緒にしないでよ、まったく」
ちゃんと休める人、というのは「おツボネ」のことだろうか。いくつぐらいの人なんだろう。おツボネと言われると何となく年上をイメージしてしまうが、私も今年で36。同じ職場に勤め続けていたら十分おツボネだよなあと思う。実際には、派遣で数日単位からせいぜい1年程度の仕事を転々としてるけど。
「保育園がやっててくれたらいいんだけどねえ、日曜も」
「マジそれ。でも、休日保育やってるとこなんて空いてないっていうね。シッターとかもあるけど、なんか怖いし」
そうよね、知り合いでもない個人に預けるのは確かに怖いよね。私は心の中で相槌を打ちながら、海苔のついたおかきをつまむ。
「税金って、ほんっと払い損」
「そうねえ」
「ていうか何やってんの政府。少子化で困るとか言ってんだったら、もっと子育て支援に注げっての」
「ほんとねえ」
妹はここぞとばかりにヒートアップし、母の受け答えは対照的にクールダウンしていく。合唱でソプラノのクレッシェンドとアルトのデミネンドが重なるようなイメージで、あ、美しいな、と場違いなことを考えてしまう。
「こちとら未来の納税者まで育ててやってんだよ」
その言葉に、ふと現実に引き戻された。思わず首をかしげそうになった私は慌てて肩に手をやり、凝りをほぐすふりをする。
育てて「やってる」の? と、声には出さずに問いかける。他人の子をボランティアで育てているわけでもあるまいし、自分で産むと決めて産んだ子を育てるのはある意味当然なんじゃないの? それはむしろ責任とか義務であって、他人のための献身じゃないんじゃないの? と……言ってはまずそうなことばかりが思い浮かぶ。
けれど、何も由香に限ったことではない。「納税者を育てている」と声高に訴える人は決して珍しくない。このフレーズに遭遇するたびに私は疑問を抱く。お宅のお子様は果たして、必ず納税者になるのでしょうか? 納税者になるから支援に値する、のでしょうか?
その子が将来税金を納める保証がどこにあろう。納めるとしてもそれは別の国においてかもしれないし、納税どころか人口の大半を相手に生活保護の受給権を競い合う可能性だってある。
「普通にまともな大人」になることがとても難しそうに見える令和という時代に、 生まれてくる命がことごとく国の財源になるという考えは若干明るすぎる幻想ではなかろうか。将来の納税者だから価値があり、それゆえに先行投資せよとの主張なら、払う方が渋るのもやむを得ない気がする。だって、そのうち何割が本当に納税するかわからないんだもの。
もっとストレートに、命は大事だから、何も生産せずとも生きているだけで尊いのだからもっと大事にしてくださいよ、きちんと育てるためにもっとサポートしてくださいよ、と訴えてくれれば十分理解できるのにな。といっても、私が理解できることと、政府が理解して支援してくれることとはまったく別次元の話で、由香たちが求めているのはもちろん後者だ。行かず後家の姉の理解なんてどうでもよかろう。
子供が実際に納税し始めてから納税者育成手当を支給しろ、と望むならまだ理にかなっているが、由香が必要としている支援は、今与えられないと意味がない。世の中とはつくづく厄介だ。
子育てに優しくない環境で子育てをするのは、さぞかし苦労が絶えないことだろう。とはいえ、「わかるよ」なんて言ったら間違いなく怒られるからうかつに言えない。結婚も出産も経験していない私にわかるはずがない。そんなに簡単にわかっていい話ではないのだ。
現役主婦で経産婦、かつ子育て経験者である母に対して由香があれこれぶちまけているとき、もともと聞き役な私は黙って聞いていればいいから楽だ。ただそこにいればいい、という立ち位置が自ずと確保されているのは、ありがたいことだった。
難しいのは、母1人を相手にしているときである。
何となく妹の話になることが多いのは別にかまわない。母にとって、次女の子育ては最も旬なトピックなのだから。「共働きで2人育てるってやっぱり大変よねえ。由香の言うとおり苦行よ、苦行」と、彼女の立場に大いに理解を示すのも母親としては当然だろう。由香の不満を代弁するのも、愛情ゆえだと思う。
しかし、締めくくりに必ず「子供だけは持ってみないとわからないもんねえ」と付け足す意味は、一体何なのだろう。文脈から察するに、由香は子供を持ってみたからその苦労がわかるよねえ、でもあんたは独身だし今後も末永くそのままだろうからわからないよねえ、だろうか。そう解釈して「そうだね」と応じれば一応ひと区切りつくところを見ると、多分あっているのだろう。
が、こちらが何度理解しそれを表明しても毎度毎度これを言わずにいられない心理というのは、きっと永久に私の腑に落ちることはない。「どういう意味?」とわざわざ聞くのは大人げないことぐらい、世間知らずの私にもわかる。
とりあえずうなずきながらも、母のセリフはいつも一字一句違わないものだから、何度目かで「だけは」の部分が妙に気になった。
子供、だけは。
そりゃあ自分の体から別の個体が出てきて、その生命維持のお世話をし、人格形成にも大きく寄与するのだから、出産や子育てというのはさぞかし人生観が一変するような唯一無二の経験なんだろうと私は想像する。
もちろん想像しただけでわかった気になってはいけないけど、じゃあたとえば、災害や事故で九死に一生を得るとか、不治の病で余命を宣告されるとか、夜道で黒ネコのしっぽを踏んでギャンと鳴かれて肝を冷やすとか、宝くじが当たるとかの方がよっぽど稀有な体験のはずで、それらとの間に明確に線を引いて「だけは」とまで強調するほどの「だけは」感が実際そこにあるのかなあと不思議でしかたがない。
こうして頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも、マンツーマンの会話である以上、何かしら反応せざるを得ない。毎回「そうだね」じゃ芸がない気もするが、それ以外の返答を思いつけないまま今に至っている。
冷めたお茶の残りを飲み切る頃には、赤ちゃんはすっかり寝入って隣室に移され、由香が添い寝する流れとなった。4歳児は、ばあばを巻き込んであやとりを始めていた。
この後、母が夕食の支度を始め、入れ替わりで私が姪っ子の相手をし、遊び疲れた頃に由香が起きてきて、皆でにぎやかに食事をするだろう。由香が愛娘とお風呂に入っている間に、眠る赤ん坊を横目で気にしながら、私と母、2人の時間が訪れるだろう。平和な、いや、奇妙なまでに無難なやりとりが容易に想像できた。
何の他意もない純然たる疑問は、だから永遠に解けない。この、喉に何かがつっかえたようなすっきりしない感じに、私はしかし慣れっこでもある。
幼い頃からしょっちゅう抱き続けてきたこの手の自然な「ハテナ」には、ほとんど答えてもらえた試しがない。それどころか、「そういうことは聞くもんじゃないの」とたしなめられる。黙して察しろ、の精神だ。物心ついて以来そんな風だったから、「疑問は投げかけない」を習得するのは人一倍早かった。
なぜなんだろう。どういう意味だろう。ふと出会ったそんな謎の数々を、じっと握りしめ、ひたすら見つめ、飽きては少し温め、また思い出してあらため。そんなことを繰り返しているのは私だけに違いないと長らく信じてきた。元来、話題になったあれやこれをスイッと飲み込めない。目の前の景色より頭の中の命題が気になる。一度気になったらなかなか忘れない。そんなねちっこい性格による、私特有の問題なのだと。
ところが、インターネットが日常の一部になってみると、そうではないことがよくわかった。私と同じように、いや、むしろはるかに激しく、あらゆる不透明な感情をひそかに泡立たせている人が世の中にはごまんといる。
素朴な疑問のみならず、漠然とした不安、生産性のない愚痴、不運や不幸の主張、理不尽に強いられる我慢、うとまれそうな自慢、違法ではない迷惑行為への不満、不毛な反論、飼い犬に手をかまれる悔しさ、醜い嫉妬、卑下としか取られない引け目、晴れることのない罪悪感、一般的すぎて言及に値しないストレス、的外れな称賛を受けたときの不的確感、お節介でしかない助言欲、それを抑圧した結果の未解決感……。
これらをうまく言語化できない、あるいは言語化すべきでないことがわかっているとき、人はそれに新たな名を付けるのではないか。
たとえば……そう、「モヤモヤ」とでも。
語れば炎上は免れない、もしくは自分の心が折れる。そんな理由で押さえ込まれた思いはどれも、一種の欲求不満だ。そして多くの人は、己の思考の中においてすら言語化を避けているのではないか。直視しないが吉、という動物的本能が、そこに曖昧さを求めるのではないか。
むやみに表立って「解像」してはいけない感情というものがある。人前で口にすれば確実に燃え、内なる分析すらマイナスにしかならないひそやかな念。この感情にかつて誰かが与えた名を、皆が当たり前に使う名を、ただ踏襲する。それが社会的に正しい大人の対応であり、自身のためでもある。
母と姪の声を背後に聞きながらスマホを手に取り、すっかり手が覚えている一連の動作で私はロックを解除し、いつものSNSを開いた。
検索窓が記憶している「#モヤモヤ」というハッシュタグを見に行くと、今日も全国津々浦々から各種のモヤモヤ案件が寄せられていた。かなり赤裸々な告白もあれば、幾重ものオブラートに包まれたもの、最大限に普遍化されたものもある。単純に吐き出したいのか、はたまた共感が欲しいのか。何気ないつぶやきから切実な叫びまで、彩り豊かだ。
私はこのタグで書き込みをしたことはなく、今後もおそらくすることはない。……なぜだろう?
「吐き出したい」より「理解したい」が強いからだろうか。公にこの気持ちを明かしたところで、反論や的外れな賛同に交じっていくらかの共感が得られる程度だろう。共感が無意味だとは言わないが、総合的に見て私にとってはコスパが悪い。結局、真の意図は、疑問の源である本人に聞くしかない。にもかかわらず、意図を尋ねて意図を教えてもらえることは、私の経験上まれだった。
諦観ゆえの執着、なのかもしれない。対象を鮮明にすることを諦めているからこそ、せめて自分自身に関してぐらいはモヤを晴らしたい。だからこそ自分の本当の心境を、何倍にも薄めた呼称で世に放つ代わりに胸の内でとことん突き詰め、自分自身に突きつけることにこだわっている。
こんな私のささやかな抵抗もまた、端から見ればモヤに包まれていることだろう。
【了】
※この作品はフィクションです。
※当記事内の画像は、あさぎ かな様(@Chocolat02_1234)より頂戴しました。
※「磨け感情解像度」応募作品です。書くのも読むのも楽しい企画でした。ありがとうございました!
https://note.com/irritantis/m/mccb929344344