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幕【短編小説】

 夫が浮気していた。三十近くも年下の彼女と、濃厚な口づけを交わしていた。ねっとりと腕を絡め合い、安っぽいラブホテルへと消えた。
 その光景を目にしたショックはしかし、自分でも驚くほど小さかった。ああ、ついに来たか、と。予感はもう長いことそこにあったから。

 二人の仲むつまじい様子は、いやというほど見てきた。見つめ合い、語り合い、笑い合うあなたたちを、間近でずっと。人並み以上に嫉妬したのは、親愛の情という建前に隠しきれない熱い炎を感じたからだ。私が妻と呼ばれる座におさまっていることが、もはや滑稽に思えた。
 膨れ上がる懸念を口に出し、追及することも考えた。しかし、それは同時に、私自身の逃げ道を奪うことになる。きっと気のせい。誤解に違いない。考えすぎだ。そうやって目を背けることで、かろうじて自分を保っていた。面と向かって問えば答えが出てしまう。それを私は何より恐れた。

 いざ、こうして答えを目の前に差し出されてみると、私は奇妙に冷静だった。夫と彼女が肉体関係にまで発展している。いっときの気の迷いや単なる衝動でないことは、私が一番よく知っている。そう、きっと当人たち以上に。ここまで来たら、もう二人が後戻りすることはないだろう。 
 ソファーでひとりクッションを抱き、先ほど目にした二人の姿を思い出す。後ろめたさのかけらも感じさせない満面の笑み。倫理や世間の目など、彼らには何のブレーキにもならないらしい。だが、言うまでもなくこれは不貞だ。とがめられ、裁かれる運命。
 いっそ私が、と思い立つのに時間はかからなかった。これ以上先へは進ませない。こんな不道徳を赦してはならない。私に対するとどめの一撃は、いつしか無意識に待ち望んでいた救いでもあった。
 ようやく別れを告げられる。妬みにさいなまれながら平静をよそおう日々にも。誰にも明かせぬ不安に泣きぬれる夜にも。
 私がこの手で、幕を引く。

 もう使われることのないネクタイやハンカチに、それでもいつも通りアイロンをかけ終え、十時過ぎに帰宅したあなたを何食わぬ顔で迎えた。二人きりでの最後の晩餐は、あなたの好きなクリームシチュー。お風呂に入っているすきに、薬を混ぜた。
 死をもって二人を分かつ。その決意が揺らぐことはなかった。唯一迷ったのは、どちらを殺めるか。あなたたちにとって、殺されるよりも後に残された方が不幸であることは疑いの余地がない。そんな痛みを味わわせないためにこそ、私は誰よりも愛するあなたを手にかけると決めた。
 お風呂から上がったあなたは、「いただきます」もそこそこに、目も合わせずシチューをむさぼり始めた。何度となく繰り返されてきた日常。でも、今日は。
 ある程度食べ進めたところで、あなたは小首を傾げた。
「どうかした?」
「なんか急に疲れが……」
 そう呟くと、コップの水を一口、二口。
「ちょっと横になる……」
 あなたはゆらりと席を立ち、隣の和室へと倒れ込む。
――今だ。
 私は後を追い、畳に膝をついて彼女の顎を持ち上げた。うつろな両目がさまよいながらこちらを見る。寝入ってはいない。が、もたもたしていたら夫が帰ってきてしまう。細い首を私の両手が捕らえると、彼女はわずかに目を見開いた。
 愛しいあなたの顔をこの目に焼き付け、渾身の力を込めた。艶やかな唇が声を発せぬまま弱々しく動く。
 おかあさん、と。
 彼女の腕が宙を掻き、まもなくだらりと垂れた。私の手の中で、息の根が止まる。
――愛してる。今までも。そしてこれからも。
 傍らの壁で、主を失った制服のブレザーが寂しげに揺れた。



                     【了】


※この作品はフィクションです。

※ヘッダー画像は、あさぎ かな様(@Chocolat02_1234)より頂戴しました。

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