【少し長い語り】今年を振り返る
さて、早いもので2020年も終わりを迎えようとしている。
普段はそこまで、日々を振り返るということはないのだが、年末になるとどうしても、「今年は〇〇だった」と考えてしまうことも多い。
そんなわけでというものでもないし、ここに記録に残すほどかと言われると少し恥ずかしい気持ちもあるけれど、自分なりに自分の気持ちを整理するためにも、noteで記録しようと思う。
ここから先は、私の気持ちを素直に書いていこうと思う。
私を知る人はどのように私のことを見られているかはわからないが、私は根っからの天邪鬼でひねくれ者で、少し厳しい。しかし、自分にはとても甘いのである。笑
そんな私が今年過ごして感じたことを書くエッセィのようなものかもしれない(そんな大げさに言わなくても良いじゃん、私)。
自分を奮い立たせるような内容も含むため、ちょっと熱くてウザい内容もあるだろうが、その辺はご愛嬌ということで。
前置きが非常に長くなるのも悪い癖。
では、思うままに書いていきます。どれくらい長くなるのか、内容はどうなるのかは、書いている私に任せることにして。
【平等であることとないことを区別する】
人は皆平等であるという趣旨のことを私たちが学校教育で学んできたと思う。私の記憶が確かならば、社会科の授業で、フランス人権宣言を習った時であったか…。
その時を契機にとは言わないが、私たちは平等であることを強いられて、少しその意味を履き違えて教え込まれたように思う。
私が少しひねくれたものの見方をするので感じているだけかもしれないが、基本的に平等なんてないと思う。
平等であるならば、父・母…などと呼び方はしないだろう。人は人だもの。
猿だって、チンパンジーだって群れのボスがいるのだから、既にそれこそ格差社会だ。人間だって、昔から階級制度があって、貴族がいて、名字を持てない人がいて、身分は世襲制で…なんて挙げればきりがない。
歴史的にも、種族的にも一定の不平等の中で収まるところに収まりながら生きてきたのだから、平等なんてないのだ。
ただ、全てが不平等なのか。それは違う。そこで区別することが必要だ。
私として思うのは、時間は平等であるということ(そんなん知ってるという声が聞こえる)。しかし、簡単に不平等に変わるということ。
平等であるのはあくまでも、時間の長さであって、密度については平等とは言えない。それは、その人の環境により、同じ1分でも経験できることの多さが異なるからである。
なんでこんなこと考えたかというと、ここ最近は在宅勤務が増えて、時間の濃さを意識して仕事をするようになったからである。
【結局ひとは変わりたくない生き物だ】
今年を振り返る上で、やはり外すことができないのが、新型コロナウィルスの流行であろう。
世界で多くの方が感染し、大変な被害をもたらしている。私は、医学や感染症の知識がないので、そのことを多くは語れない。
しかし、奇しくも、そのウィルスがもたらしたものはマイナスの面だけではなく、時代の変化の加速であろう(マイナスばかり考えると気が滅入っちゃうもの)。
例えば、仕事の仕方に注目すると、多くの社会人は会社勤めというように、会社に勤めていた。出勤し、職場で仕事をし(営業などの方は出先も職場とする)、退勤する。そんな生活をしていたが、昨今は人との接触を避けることが、ウィルスに立ち向かう一つの手段であると言われることからも、職場に出勤する人数を減らし、在宅勤務に切り替える企業も多いと思う。
私はそれがとても心地よくて、歓喜した!だって、家から出なくても良いのだから、家が大好きな出不精ですので…。笑
緊急事態宣言が発令されている期間から、そのような仕事の仕方の変化は加速して、定着したところも多いと思うが、最近はどうだろうか?その当時のままの仕事の仕方が継続しているだろうか?新しい生活様式と銘打たれたことは、貴方の生活に根ざしているだろうか?
私の憶測に過ぎないが、多分NOだろう。
何かに理由をつけて、職場に出勤する人が増え、気づけば元通り。そんな職場も多いのではないだろうか。例に漏れず、私の勤め先もそうである。
そこから思うことは、ひとは便利を求めるが変化は嫌うということだ。結局私たちは、変わりたくない生き物なのだろう。
【優先順位をつけなさいと言うけれど…】
様々な場面で、「優先順位をつけて〇〇しなさい」のようなことを言われたりするけれど、私はそれに疑問を感じる。
そもそも優先順位って、なんの為につけるんですか?と。
優先順位をつけるということは、反対に優先しなくてもいいですよね順位をつけることに他ならない。
しかし、優先しないものに手をつけないとそれはそれで文句を言われる。
優先順位って結局はなくて、その物事を片付けたら得する人が多い順位の方がしっくりきたりもする。
先ほどの話の続きとなるが、緊急事態宣言が発令された際には、私の勤め先も大幅な人員を在宅勤務に切り替えた。その際に言われたことが、「優先順位の高いものから仕事をしてください」という指示である。
ここからは私の仕事に対する持論であるが、優先順位は全ての仕事が1位だと思う。では、どの仕事から手をつけるか…それは、携わっている人が多い仕事から手をつけるのである。
その理由は、述べるまでもないが、自らがコントロールできない仕事だからである。そうやって考えて仕事をすると、案外うまく仕事が進むから不思議だ。
仕事って、物理では熱量のジュールという単位で表される。それは、物がどれだけ移動したかを示す単位であるが、私たちが行う仕事は、それほど物事が進まない時ほど大きな熱量が必要なことが不思議にも思う。
【好きなこと】
私は、本を読むことが好きだ。
そこに理由はない。理由がなくても好きなものは好きだから。
なんで好きなの?と聞かれれば、本を読んだ時の達成感や充実感、一種の旅行感覚、集めることの楽しさ等…多くの理由を言うことができるが、結局はそれも好きの理由の後付けなのかもしれない。
本を読む時、読書を好きになろうという動機のひとはどれくらいいるのだろうか?気づけば手に取って、夢中で読んで、その興奮がさめないうちに、また次の本を読む。そうやって気づけば、読書が習慣化し、習慣化しているのであれば好きなんだなと実感する。そういうものなのではないだろうか。
〇〇を好きでなければならないことはない。
自分の気持ちのベクトルがどこに向くかなんてわからない。
ベクトルの向きを捻じ曲げる必要もない。
そのベクトルの向く先を、誰かに決めてもらう必要なんてない。
自分本位でいいじゃない。楽しいのだから。
【アフター〇〇という言葉の違和感】
最近何かと耳にする、アフター〇〇という言葉。
私はこの言葉を聞くたびに、多少の違和感があるなと感じる。
私たちが生きているのは、言うまでもなく今だ。〇〇なうなんて言葉もあったね、今はもう使われないけどね…。笑
今のことを考えずして、なぜ将来のことを考えられるのだろうか。
将来のことは予測できてもわからない。予測された通りの将来になることになんの面白みも感じない。
じゃあ、何が面白いのといえば、今を全力で駆け回ることだろう。
将来の備えをしなくて良いとは思わないけれど、将来に備えて縮こまり続けて、我慢の連続の日々を過ごして何が楽しいのだろうか。
我慢の先にあるのは、解放だと思う?
多分、その先にあるものは、更なる我慢だと思う。
日本人は我慢強いと言われるが、私はひねくれ者だから、そうだとは思えない時もある。
強いて言えば、「やりたいことがわからない」からこそ、なにもせず、結果的に我慢強いと言われているだけなのではないだろうか。
我慢しないでいいよと言われた時に貴方がしたいことはなんでしょうか?
やりたいことがわかれば行動するし、周りからは自由人や、変わった人だと思われるかもしれない。
でも、そうやって行動するひとは純粋にかっこいいと思う。
勘違いされそうなので、チクリと釘を刺すが、「行動する」と迷惑をかける・無茶をすると言うのは違うからその意味を履き違えてはならない。
【さいごに…】
はじめにというお題目がないのに、さいごにを書くあたりが、統一感取れていないなと思うわけだが、書き始めてしまっては仕方ない。
気持ちの整理や、普段思っていることの整理のために書き始めたこのnoteもそろそろ終わろうと思う。
長々と読んでくださった物好きの方がおられましたら、本当にありがとうございます。面倒なやつだって思ったことでしょう。それは正解です。笑
さっき書きましたが、将来はどうなるかわかりません。
でも、どうしたいかと考えるとこはできます。
こうやって、振り返ることで、どうした方がよかったかと知り、それを今の行動に活かすことができます。
そうやって、日々自分をアップデートできたら嬉しいなと思うのです。
さて、今日も私はアップデートします、筋トレして。笑
では、良いお年を。またね。
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