体験談を話すにはまだ早いか
うつ病と診断されてから約10年、乳がんと診断されてから7年。
うつ病は最近は誰しもご存知な病気です。がんも同じく。
うつ病の時は色んな事を経験しました。
・仕事中の安定剤大量服用
・食欲低下
・ひたすら眠る
・身体にも異常が出る
・常に「死にたい」と思っている
・抗うつ剤が効かないどころか副作用で悩まされる
挙げればキリが無い。
今、うつが酷い頃の日記を読み返していたのだけれど、何かちょっとでも良くない事や、一日何も出来なかったと書いた後には必ず「死にたい」と書いていた。
「デパス50錠飲んだ」とも書いてあった。良く飲めたな、と今なら思う。
そんなうつ病患者が今度は乳がん患者になった
忘れもしない、2014年の12月。私は右胸の下にある出来物を取って貰いたいが為に、皮膚科へ行った。医師は
「検査を行う為に切除するなら今出来ます。」
と言ったので、特に何も考えずとにかく取って貰いたいが為にその日の内に出来物を取って縫合して貰った。一週間後に抜糸。
「もし最悪の場合は市民病院に予約を入れますので。」
という言葉も、厄介な出来物が取れた喜びで耳に入っていなかった。
その一週間後、病院に着くなり
「市民病院への予約はいつがよろしいですか?」
と受付の人に言われて「え?は?」と思ったが、一応予約を取った。
医師は特に何も言わず、抜糸をして終わった。意味がわからなかった。
その後、市民病院へ一人で行った。真っ先に医師から
「あの、ご家族は…?」
と聞かれた事を今も忘れない。これは今やネタになっている。
所謂「ガン宣告」だったからだ。
聞いた瞬間、ショックだった。でも、自分が死ぬかもしれないというショックよりも、母に知られて心配される事が何よりも辛かった。母は娘の私に何かあれば「もっと丈夫な子に育ててあげたかった」と自分の責任にするからだ。そもそもうつ病で退職して間もない頃だったから余計に伝えたくなかった。いつ言おうか、それだけが気になった。
ガン宣告の後、様々な検査を行うので、2~3日置きに病院へ通った。何でいっぺんに検査が出来ないかなぁ、と思いつつ、出かける時は母に「ちょっと病院行ってくる」だけで済ませていたが、流石に何度も病院へ行っていると心配されると思い、数あった検査の最後の日。
「お母さん、実はね、私乳がんって言われたんよ。でも大丈夫やからね。」
それだけ行って家を出た。母の顔は見れなかった。
精神疾患患者は物理的病気に強いんじゃないの?
私は元々うつ病で死にたいとずっと思っていたので、がんなんて、母には申し訳無いけれど、がんで死ぬならそれでも良いと思っていた。
病院の治療と手術のスケジュールを聞いて
「物理的に切ってしまえば治るんじゃね?」
と単純に考えていた。私はがんが進行していたので術前治療だったのだが、毎週早朝にバスに乗り、誰よりも早く血液検査を受け、一時間後の結果を待ち、白血球の数値が良ければその後治療室で抗がん剤の点滴を3時間。
そこで心配だったのが一つだけあった。私は抗うつ剤で嫌と言う程副作用に悩まされてきたから、ひょっとして抗がん剤も副作用で治療が続けられなかったらどうしよう?と悩んだ。
と、思ったのも束の間。毎週点滴をしていても特に吐き気も何も無く、ただ便秘は辛かった、ぐらいで終わった。思い過ごしだった。
しかし、全く同じ点滴をお隣の人がしていた時に聞こえてきたのは
「先週の点滴の後、吐き気が止まらなくてご飯が食べられませんでした…」
と弱々しい声が。カーテン一枚の隔たりしか無いので、聞こえてしまったのだけれども、私は同じ点滴でも吐き気もへったくれも無かったから「やっぱり同じ薬でも人それぞれなんだな」と実感した。
勿論体中の毛という毛が抜けました。その時眉毛を初めて描きました(笑)
半年後、やっと手術へ
そんなこんなで点滴を半年ぐらい続け、手術の予定を聞かされた。
先に抗癌剤治療を受けたのは、私のがんが大きかったので、なるべく小さくしてから手術で取り除こうという事だった。
手術の説明の時に初めて母も一緒に診察室に入った。
色々と説明されて、聞かれた事が2つ。
・卵子凍結保存は必要か
・乳房再建は行うか
私はどちらも即答で「あ、いいです。」「いりません」
と答えたもんだから、医師や看護師さんの方が驚いていた。私の方が至極冷静でアッサリとしたものだった。
別に子供がほしいとか、そもそも結婚出来そうも無いし、胸があろうが無かろうが誰かに見せるわけでも無い。ブラジャーつけてればわからんだろう。
と、いう考えで全て却下した。
初めての手術
テレビドラマで良く見るような手術室に入るイメージとは全く異なった。あれは重症患者さんが運び込まれて直ぐに手術する時だからなのね、と。
私の病室は9階で、手術室は地下にあった。手術室へ行く患者専用の大きなエレベーターに、私が病室で使っているベッドを看護師さんが押していき、私は徒歩。別にベッドに寝て行く意味は無いよな、と思いながらも異様な光景だな、と思った。
そして地下に到着。物凄い数の手術室があり、番号だけが見えている、コンクリート打ちっぱなしの壁のとても同じ病院だとは思えない風景だった。
そのまま歩いて手術室の前の椅子に座り、見習いの看護師さんから色々と質問を受けた。今まで話してきた事を幾つか答えて、医師が到着するまで椅子で待機。医師が来てやっと手術室に入った。徒歩で(勿論だ)。何かイメージと違うなぁ、と思いながら、やたら細いベッドに横になって、そのベッドの両脇には腕を乗せる所があった。麻酔やら打つ為に腕を出しやすくしていたのだろう。
が、今まで私は抗癌剤の点滴を右腕の肘下にある、看護師さんにとって分かりやすい太い血管に針を刺していたので、その後遺症?か、右腕を台に乗せた時に「腕が痛いです。多分点滴してたから…」と申告しました。まさかの手術前の痛み。コメディかな?って思うぐらい自分は面白かったのだが、医師や看護師さんは慌てて腕の拘束具を外して腕の台を曲げて貰った。結果、麻酔の点滴は左手にされていた。
その後は勿論覚えていない。母は手術室の近くにあるソファーが沢山並んだ待機室で待っていた。その間担当医師が色々と説明していたらしい。
手術は3時間ぐらいかな?麻酔が効きすぎたのか、なかなか起きなかったらしい。目が覚めた時は、医師と看護師さん全員が顔を覗き込んでいたのでびっくりした。
「手術が終わってもなかなか起きなかったので心配してたんですよ~」
と。私は元々睡眠欲が強いので、多分ここぞとばかりに寝ていたんだろう。その後は持ってきていたベッドに寝て病室に戻った。酸素吸入器や、色んな機械や点滴が繋がった状態だったけれど、私は何ともなかった。母がずっとついていてくれたが、喉が乾いた、とか手術の前にこんな事があった、とか色々と喋りまくっていた。何て元気な病人なんだ。とても術後直ぐとは思えない、と自分でも思った。
面会時間ギリギリまで母は側に居てくれて、その後一時間後には消灯だったのだけれど、看護師さんから数時間寝ていたので少し歩いてみましょう、と言われた。
点滴の管や、尿のパック等を下げたまま、妙に広い病室の通路を行き来した。特に問題は何も無かった。私は体は弱いかもしれないが、脚だけは昔から丈夫だった…からかもしれない。
辛いと思われる事を悲観せず何故乗り越えられたのか
これはもう、完全に自分の思い込みである。
「切って治るモンならやってやろうじゃないか」
これだけ。うつ病は切っても治らない。脳のバグだからだ。そんなもん、直ぐに治らないのは経験済み(現在進行系)だし、注射も点滴も元々平気だったからかもしれないが、そもそも夜型人間が朝8時から病院へ毎週通っている時点でやる気満々だ。勿論、点滴中は熟睡していたけれど。
私に出来る事は経験しかない
普通に健康な人が突然病気になる事もありますね。勿論今はコロナで思いもよらない事態が続いています。だからこそ、精神的にも、身体的にも苦痛を強いられている世の中だと思います。
私自身もまだまだ弱い人間だけれども、自分に起こった事は話す事が出来る。もし似たような状況で、辛い立場に居たら思い出してください。
私のような踏んだり蹴ったりな人生を送っている人間も居ると言う事を。
私自身、まだまだ色々な意味で辛い立場ではありますが、悩んでいる人に対しては話を聞いてあげたいと思っています。話すだけで気持ちが軽くなる事を私自身が実感しているからです。
最近、コロナ禍で相談センター等、電話やチャットで話を聞いてくれる所が増えてきました。地方によって連絡先が様々ですので、辛い時にはそういうものを利用するのも良いと思います。
使えるものは使う、行政のサービスがあればとことん活用しましょう!
若干、このタグ使っても良いのかな?と書いている内に思ったけれど、まぁいっか(笑)
私からは以上です。長々とここまで読んでくださった方、そこのあなたです。本当にありがとうございました!
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