ピカソ研究者たちのストーカー性について-『ピカソ 青の時代を超えて』を見てきた-
しばらく下書きに入ったままだった記事をのせます。。
広島にピカソがやってきた。
正確にいうとやってきてた。もういない。
見に行ったのは2月だった。
今になってふと書く気になったので書いてみることにする。
記憶はもうフワッフワのトイプードルくらい輪郭が曖昧になっているのでそのつもりで読んで欲しい。
わたしはピカソとかぶっちゃけよくわかんない人だった。
普通に書いた方がよくない?っていつも思ってて、ものすごい評価を受けているのも謎だと思っていたクチである。
わたしの興味がピカソ展へ足を運ぶほどになったのは原田マハさんのおかげだった。
原田マハさんは美術館のキュレーター(学芸員のような立ち位置)の経験もあり、美術作品をテーマにした小説をたくさん書かれている作家さんだ。
小説に描かれるピカソはエネルギッシュで、でも陰を背負っているような感じで…私の語彙では言い表せないんだけど、
誰とでも仲良しの陽キャではないし、どちらかというと陰キャなんだけど、うちに秘めたものがたぎっているというか…普段はおとなしーい人なんだけど、なんか芯のある、人と違うことを恐れない強さを持ってて、推し活のときだけは目の色が変わるタイプのオタクというか…
開放的な快活なキャラクターではないけど、うちに秘めた強い気持ちが絵ににじんでいる、そんなかんじ。
まじで語彙力ない。ごめんなさい。
ピカソのあの立体を書いて人体を表現する有名な画風に辿り着く前の変遷も見れて、やっぱり人の考えって移っていくもんなんだなぁ、でも芯にある想いは変わっていないのかな、なんていろいろ思っていたんだけれど、
絵の横の小さな文字が目に止まった。
ピカソ研究者なるものがいるのだと。
ピカソ研究者たちは、絵をレントゲンにかけては絵の具に微細に含まれる鉱物による反応を見て、今キャンバスに描かれている絵の下に、どんな失敗作が眠っているのかを研究するのだと。
昔はキャンバスを何個も買うお金がなかったから、上から塗っていたそうで、その下書きを解読するそうな。それに人生を捧げている。
シンプルに怖い。
もし自分が中2のときの日記とかをその執念で調べられたらつらい。
なにが彼らをそんなふうに突き動かすんだろうか?
「この人は何かすごいことを考えていたに違いない」という思い、信念が突き動かしていて、なんかそこにもうピカソはいない気がするのだ
ピカソが何も考えてなかったとしても
いいのではないだろうか。
ピカソを追いかけている自分たちが好きなようなそんな感じ。
彼らはピカソの考えに何かを求めているわけじゃなくて「ピカソの隅から隅まで解読してる俺!」を求めている気がした。
最近は「インスタでフォロワーが多いわたし」「年収が平均より多い俺」
そんな条件付きの自分を追い求めている人が増えているように思う。
わたしも例外に漏れず、やっぱりそのステータスにうらやましさを感じてしまう。
だけどステータスを剥がされた時に、「自分が好き」といえる自分でもいたい。
たとえピカソが何考えてたかわかんなくても
noteでいいねのつかない記事を書いていたとしても
自分のこんなところが好きって
言えるように限りある時間を使いたいなと思った。
ピカソ展をみに行ってこんなこと考えるのはお金がもったいなかったかな…笑
純粋に絵見ろよって感じだけど
自分の思考に深みが出たなぁとも思えた。