『読書間奏文』を読む
セカオワ、特にSaoriちゃんにはまっている私は、『ふたご』は9月に文庫本になってから買おうと思っているのだが、その前に『読書間奏文』を買って一気読みした。面白かった!自身の体験や思いと、紹介する本の引用文がぴったりなのだ。貧乏時代、1000円を基準に取捨選択をしていたSaoriちゃんは、牛丼一杯に物事を換算する小説の登場人物に自身を重ねつつ、今では「8000円」を価値の基準にし、ネパールの子ども二人の支援をしている。こういうエピソードを読むと、自分が基準とする金額はどのくらいだろう、と思い、私もネパールの子どもの支援をしようかな、などとも考える。また、村上春樹の『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』を紹介するときは、グレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』ではなく、ピーターゼルキンの『ゴルトベルク変奏曲』を聴きたくなる」という部分を引用しつつ、さらりとそれは「なんの言葉も欲しくない、ただ雨音を聞いていたいような気分のこと」と言う。実は私は村上春樹ファンで、作品は全部読んでいる。だから当然、この『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』も読んでいるのだが、音楽の素養に欠ける私は、このようなコメントをすることができない。印象に残っているのは、ウィスキーを割るのは水道水がいい、という一節である。何という教養と感性の差であろうか。そして、次の章では、Saoriちゃんがウイスキー用にバカラグラスを持っていることが書かれ、同じくバカラで日々麦茶とビールと鉄分ジュースを飲んでいる私はちらりと嬉しくなる。(そして、これを機にウィスキーも嗜んでみるか、などとも思うのである。)また、『妊娠カレンダー』や『ぼくは勉強ができない』という、昔大好きで何度も読んだ本が、Saoriちゃんのエピソードを通して紹介されるのも楽しい。さらに、読もう読もうと思っていてまだ手にとっていなかった西加奈子さんの『サラバ!』をめぐるエピソードには、Saoriちゃんのお母さん(関西弁)も登場し、やはりこれは読まねばならぬ、と思わされる。『読書間奏文』は、私にとっては、そこで紹介される本を知れたこと、Saoriちゃんの感性を知れたこと、セカオワの色々を知れたこと、という点で、一粒で三度美味しい本であった。そしてもう一つ、本をめぐるエッセイや書評というのは、その本を読みたいと思わせれば勝ち、と私は勝手に思っているのだが、まだ読んでいない数冊を「読まねば!」と思わせたという点でも、この本はとてもよかった。