「灘中学の生徒にビッグイシューが出張講義」というニュースについて

 私の嫌いな言葉は「自己責任」である。どんな運命に翻弄された人がいるかもわからないのに、全てを「自己責任」で片付けるのは冷酷だし無関心も甚だしいと思うからだ。そんな折、「灘中学の生徒に『格差社会と自己責任論』について、ビッグイシューが出張講義」という記事を見た*。かいつまんでいうと、講義前は「ホームレスになるのは自己責任」と思う生徒が6割を超えていたのに対し、実際にビッグイシューにより生活を立て直している人の話を聞いた後では「そうは思わない」という生徒の方が多くなった、ということだ。何につけ、本人にはどうにもならないことがある、というのを知ること、そこから立ち直る道は常に用意されているべきだということ、周囲は冷笑する代わりに、共感を持って接すればいいということはとても大切だと思う。

 興味深いのは、これに対して平野啓一郎が「学校で『成績がいいのは本人の努力』と言い過ぎると、自己責任論者になる。いい歳して、未だにそれが抜けない大人が多い。」とコメントしていたことである(https://twitter.com/hiranok/status/1282817719012741121)。このコメントは、平成31年度の東京大学入学式における、上野千鶴子氏の祝辞にある一節、

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

ということと合わせて考えるべきことなのかもしれない。しかしここでは、もう少しわかりやすい側面、「学校で『成績がいいのは本人の努力』と言い過ぎる」ということを考えてみたい。

 日本の学校は「人間の能力は皆平等」ということを建前にしている、というのは散々味わってきた。小学校の頃、マラソンが遅くて大嫌いだったのだが、先生は「前を走っている人ほど苦しい」と言った。そんなはずはない。速い人はマラソンに向いているから速いのだ。けれど学校は、「人にはそれぞれ才能があります」などとは絶対に言わず、「全員がゼロの状態のコンピューターで、インプット(=努力)すればするほど性能がよくなる」と思い込ませようとしているかのようだ(もしかしたら親もそうなのかもしれない。だから幼少時からあれこれ習い事をさせ、先取りをさせようとするのかもしれない)。こういう中である程度の成功を収めれば、結果を出さない人は努力をしない人と思う人間が多くなっても不思議はなかろう。

 しかし私はこの考えに真っ向から反論したい。先日「子の性格はガチャ」というツイートに共感した話を書いたが、それと同じ論である。まず、人間には最初から、向き不向きがある。向いていることは、普通にしていても他の人よりできる。だから、ことさらに「本人の努力」などと言う必要はない。次に、「努力とは、辛いことをやり切る力」というだけのものではなく、もっとニュートラルに、「目標に向かって歩いていく力」ではなかろうかということだ。だから、成績のいい子は、たまたま勉強に向いていて、自分でもその能力を伸ばそうとして進み続けたからこそ結果に結びついたのだ(そしてそこには、進み続けることができる環境も含まれる)。これについては、読んで共感した本があったので紹介したい。中野信子の『努力不要論』である。

 この本には、明石家さんまと為末大の言葉が紹介されている。アイドルが「努力は必ず報われる、とは最初は思っていなかったけれど、経験上、努力をしていれば必ず誰かが見てくれていて、報われることがわかった」と言うと、明石家さんまは「その考え方は早くやめた方がいい。これが報われるんだと思うと、報われなかった場合、こんだけ努力してるのになんで、と思うと腹がたつ。人は見返り求めるとろくなことがない」と返している(大意である)。また為末大は、「やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが99%重要なことだ」と言う。これはまさに、私が体育の時間に感じていた理不尽さそのものではないか。これに続き、中野信子は「二つの無駄な努力」として、1)努力をしていると思い込んでいるが、実はしていない、2)努力の方向が間違っている、ということを挙げている。これまた説得力のある話だ。そして、それにもまして私が深く深くうなずいたのは、努力についての次の定義である。

真の努力とは、要するに1)成果を出すために必要な目的を設定する、2)戦略を立てる、3)実行する、の三つのステップからなる。ただし、厳密にはこれは「目標に向かって進んでいる」状態なので、努力とは言わない。富士山の頂上を目指して歩いている人のことを「努力している」と言わないのと同じである。

 これ以上シンプルでな説明、効果がある方法があろうか。このことを把握し、実行さえすれば、たいていのことは実現されそうな気がする。さらに読んでいて深く納得したのは、江戸時代の日本人の努力観についてだった。江戸時代、努力は粋ではなかったそうだ。明治に入って、列強諸国に遅れているという意識から、それを埋めようという努力がなされるようになった。その結果、遊びという「脳の栄養」がないがしろにされたのだそうである。これに対し、中野信子は「役に立つことしかしないのは家畜と同じ」、「無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけることを厭わない」と書く。この「人を傷つけることを厭わない」はまさに、このコロナ禍でしばしば出現した、「自粛警察」、「正義中毒」というものではなかろうか。そしてこの分析は、ホルモンにまで及ぶ。人間には、「幸せホルモン」と呼ばれる「セロトニン」を取り込みやすいタイプ、中くらいのタイプ、取り込みにくいタイプがいるのだそうだ。残念ながら日本人の7割は「取り込みにくいタイプ」で、欧米人ではこれは2割にすぎないのだという。逆に、取り込みやすいタイプは、日本人には2%しかおらず、欧米人は30%だとのことだ。したがって日本人は「真面目にやっているのに報われない」と感じやすいそうである。一番怖いのは、このタイプには「妬みから、他人の才能を潰す」傾向があるとのことで、これもわかる気がする。あまり実感したことはないが、いじめの多さを見ていても、人の幸せを妬む人は多そうだ。

 というわけで、灘中学の話から方向が大きくそれた気がするが、実はそれほどでもなく、言いたいことは、向いていることを淡々と続けて楽しんで生きればよろし、ということ、そういう生き方をしている限り「自己責任」という考え方はあまり出てこないのではないか、ということである。ホルモンまで出されると、なかなか日本国民がこの性質を矯正することは難しいのかもしれないが、こういう構造、ということを自覚すればある程度はこの「自己責任論者」、「正義中毒」、「自粛警察」になることからは逃れられるのではないかと思う。

*http://bigissue-online.jp/archives/1074408606.html

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