映画は、芝居だ—『茜色に焼かれる』、毎日映画コンクール女優主演賞—
私の心をとらえてやまない石井監督の映画、『茜色に焼かれる』がまたまた快挙を成し遂げた。尾野さんが女優主演賞、息子の純平を演じた和田庵さん、良子さんと語り合う仲であり、純平くんの想い人となるケイちゃんを演じた片山友希さんがスポニチグランプリ新人賞である。これで尾野さんは、TAMA映画賞主演女優賞、山路ふみ子女優賞、ヨコハマ映画祭主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞と、4つめの受賞となった。まことにおめでたい。
公開前に、名文家で知られる朝日新聞の石飛徳樹さんが「悩み抜いて化け物級」という見出しで素敵な記事を書き、「公開前から、今年の主演賞は決まりだという評判が立ち始めている」と締めくくっていた。映画を見た私は、ここまで凄いものを見せてくれたら、そりゃそうだろう、と思った。そして予想通りと言うべきか、尾野さんはこれまで、ほとんど全ての映画賞で主演女優賞候補としてノミネートされてきた。ただ一つ、日本アカデミー賞を除いて。
日本アカデミー賞というのは、芸術性よりも商業性を追求した賞なのだろうと私は勝手に解釈している。だから、商業映画として作られたのではない『茜色に焼かれる』は最初から対象外だったのだろう。これは呉美保監督の『そこのみにて光輝く』がどの部門でもノミネートされなかったことと同じである。だから尾野さんがここでノミネートされず、他の、いわゆる「映画を愛する賞」を受賞していくことは、映画女優尾野真千子のファンとしては「逆よりもずっといい」と思っている(まあ「何でやねん」という思いも1ミクロンくらいはあるが)。これからの表彰式が楽しみだ。
ところで、私は今『映画演出・個人的研究課題』という石井監督の本を読んでいる。石井監督の文章は勢いがあってわかりやすく、かつ深い。名言としてメモしておきたい言葉があちこちに散りばめられている。これはインタビューやトークショーでも感じたことだが、熱い想いが理性的な言葉によって裏打ちされていて、「文学的な映画」を作る人だと思う。本についてはじっくり読んでからくわしい感想や要約を書こうと思っているが、さしあたり、これはメモだ!と思った言葉があったので、ここに紹介しておく。
映画は、芝居だ。
ストーリーがどうのとかアクションがどうのとか、まあそれも理解できるが最も重要なのはやはり圧倒的に芝居なのだ。これは疑いようのない事実だ。もちろんそれは俳優の芝居・演技によるところがとても大きいのだが、よく巷で耳にするような「あの女優さんは演技が上手ですよね」とか、そういうぬるい次元の話では全くない。
芝居は、人間の強烈なる真実と魂を宿せる可能性のある「嘘」だ。
映画の現場全体が熱気のある嘘の連鎖で包まれた時、マジックが起こる。芝居とは表面上だけ見ればただの嘘だが、実は、本当の自己や真実に迫ろうとする試みだ。
そもそも芝居とは、人間が生きる上での基本的態度のひとつだ。
これらの言葉を読むと、改めて『茜色に焼かれる』の重層構造について考えずにはいられない。「芝居が得意」な良子さんの「まあがんばりましょう」は、生きる上での基本的態度のひとつである。そして最後のアングラ芝居には、「芝居だけが真実でしょ」という良子さんの「真実」が込められており、それは純平くんに対する「愛してる、生き甲斐だよ」という気持ちである。
そしてさらに、現場での尾野さんの「芝居」についても、これらの言葉はそのまま当てはまるのだろう。尾野さんの演技は、思いを伝える、という点で「強烈なる真実」だっただろうし、見る側からすれば、そこには「魂」が宿っていた。ここで思い出されるのが、石井監督の「尾野さんのお芝居は祈りに見えることがある」とという言葉である。もちろん、監督の言う「祈り」というのがどういう意味なのか、これ以上語られてはいないのだから断定することなどできない。しかし見る側にとって「祈りに見える」というのは感覚としてわかる。尾野さんは役柄の人そのものとしてそこに存在し、その人の真実をまっすぐに届ける。そこには操作や「欲」などないように見える。だから揺すぶられる。『茜色に焼かれる』はそんな尾野さんの演技の真髄がすみずみまで存分に発揮されていた。TAMA映画祭での評、「今年最も映画ファンの心をとらえた演技」はまさに本質を言い当てていたと思う。それゆえ、今回の「女優主演賞」受賞も、心の底から喜びつつも「そりゃそうさ」とも思ってしまうのである。