ナメられる傾向を消す
私は蔑ろにされることが嫌いです。そして、蔑ろにされる、ということは、ナメられているのだと解釈しています。
どういう理由か、昔からナメられる傾向があり、そこを解決するために「愚かな人は相手にしない」をモットーにしてきました。しかし、それは(私にとっては)間違いだった、ということに、最近になって気づきました。相手にしないで放っておくと、ナメる相手はいくらでも増長してきます。それを「ほっとこ」と思える人はいいのですが、そこにイラつかされる人間は、別の手立てを考えなくてはなりません。そこで、「立ち向かう」ことに決めました。
このように決心するには、思えば長ーいプロセスがあったのですが、その一歩目になったのは、2021年に公開された石井裕也監督の映画、『茜色に焼かれる』です。ポイントをざっと記します。
この映画の「ナメられる」構図については、実は別のアカウントでも書いています。
私はこの映画をきっかけに、ナメる相手には立ち向かう、ということを意識するようになりました。しかし、意識するだけではまだまだダメで、相変わらず「ナメられ現象」は続きました。そこからの道のりは長くて「私は馬鹿にされる人間ではない」と心の底から思ったのは、実はたったの半年くらい前のことです。その後、わかりやすい形での「馬鹿にされる」現象は消えましたが、無意識でナメている相手は、馬鹿にしていると思っていないためにまだまだ侵入してくる、という現象が起こりました。それを解決するため、黙って遠ざかろうと思いましたが、相手は遠ざかってもやってきます。そこで、最終段階として、ひとつひとつ淡々と「それは失礼です」「それはおかしいです」と言い続けた結果、相手がついに黙る、という経過を辿り、「ナメられる現象」は消えました。
今のところはこれでめでたしめでたしなのですが、もうひとつ、知りたいことがあります。そもそも、なぜ私はナメられる傾向を持っていたのか?ということです。昨日、ある人と話していて、これは前世の何かではないか、という結論に達し、そこから「かつて、迫害されたことがあるのでは」と思うに至りました。(そう言えば子どもの頃、教科書に載っていた『ベロ出しチョンマ』に異様な共感を覚えたし、『アンネの日記』を読んでアウシュビッツで死んだのではないか、とも思っていたのです。)そして、さらに「ずーっと迫害され続けたらどうなるか?」と掘り下げた結果、「お前いい加減にしろよ」と青く燃えながらナイフを突きつける、という究極点に到達したのでした。
映画『茜色に焼かれる』は赤がテーマ色なのですが、私の場合は青く冷たく燃えて相手を刺します(これは比喩です。本当に刺すわけではありません)。こんなふうに、赤く燃える人と青く燃える人がいる、というのも、無意識やら前世やら魂の傾向やら、いろんなことが混ざり合っているのだろう、と思うと、またあれこれ妄想が湧いてくるのでした。
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