見出し画像

ナメられる傾向を消す

 私は蔑ろにされることが嫌いです。そして、蔑ろにされる、ということは、ナメられているのだと解釈しています。
 どういう理由か、昔からナメられる傾向があり、そこを解決するために「愚かな人は相手にしない」をモットーにしてきました。しかし、それは(私にとっては)間違いだった、ということに、最近になって気づきました。相手にしないで放っておくと、ナメる相手はいくらでも増長してきます。それを「ほっとこ」と思える人はいいのですが、そこにイラつかされる人間は、別の手立てを考えなくてはなりません。そこで、「立ち向かう」ことに決めました。
 このように決心するには、思えば長ーいプロセスがあったのですが、その一歩目になったのは、2021年に公開された石井裕也監督の映画、『茜色に焼かれる』です。ポイントをざっと記します。

 主人公は夫を交通事故で亡くすが、相手の誠意のなさに怒りを覚え、賠償金を受け取らず、一人でカフェを経営していた。しかしコロナ禍でそれがつぶれてしまい、パートで仕事をしつつ、じつは風俗でも働いている。しかし、そういう立場にいる人間は「ナメられる」。息子は、母に対し「何にも悪いことしてないのに、俺たちずーっとナメられてんだよ」と憤慨するが、母は「まあ頑張りましょう」といなす。そんな主人公が、世の不条理に対して立ち向かう時が三回ある。一度めは、息子がイジメられていると気づき、担任に話をしに行った時の誠意のない対応に対してである。しかしこれは息子のために立ち上がったのであり、自分の誇りを取り返したわけではない。主人公が本当に動くのは、離婚した、と言って近づいてきた恋の相手が、実は結婚したままだったと知った時である。この時主人公は、真っ赤なワンピースに身を包み、包丁を持って相手に会いにいく。そしてこの男をコテンパンにやっつける。三度めはいわばその余韻ともいうべきもので、死んでしまった風俗仲間の葬儀のため、自分のことを馬鹿にし続けたパート先の店長のもとに出向き、「いらない花をください」と言う。実は、主人公は傷んだ花を持って帰って店長に嫌味を言われ、その後、いきなりクビを言い渡されていた。主人公はこの不条理に対してきっちり落とし前をつけたことになる。

 この映画の「ナメられる」構図については、実は別のアカウントでも書いています。

 私はこの映画をきっかけに、ナメる相手には立ち向かう、ということを意識するようになりました。しかし、意識するだけではまだまだダメで、相変わらず「ナメられ現象」は続きました。そこからの道のりは長くて「私は馬鹿にされる人間ではない」と心の底から思ったのは、実はたったの半年くらい前のことです。その後、わかりやすい形での「馬鹿にされる」現象は消えましたが、無意識でナメている相手は、馬鹿にしていると思っていないためにまだまだ侵入してくる、という現象が起こりました。それを解決するため、黙って遠ざかろうと思いましたが、相手は遠ざかってもやってきます。そこで、最終段階として、ひとつひとつ淡々と「それは失礼です」「それはおかしいです」と言い続けた結果、相手がついに黙る、という経過を辿り、「ナメられる現象」は消えました。

 今のところはこれでめでたしめでたしなのですが、もうひとつ、知りたいことがあります。そもそも、なぜ私はナメられる傾向を持っていたのか?ということです。昨日、ある人と話していて、これは前世の何かではないか、という結論に達し、そこから「かつて、迫害されたことがあるのでは」と思うに至りました。(そう言えば子どもの頃、教科書に載っていた『ベロ出しチョンマ』に異様な共感を覚えたし、『アンネの日記』を読んでアウシュビッツで死んだのではないか、とも思っていたのです。)そして、さらに「ずーっと迫害され続けたらどうなるか?」と掘り下げた結果、「お前いい加減にしろよ」と青く燃えながらナイフを突きつける、という究極点に到達したのでした。
 
 映画『茜色に焼かれる』は赤がテーマ色なのですが、私の場合は青く冷たく燃えて相手を刺します(これは比喩です。本当に刺すわけではありません)。こんなふうに、赤く燃える人と青く燃える人がいる、というのも、無意識やら前世やら魂の傾向やら、いろんなことが混ざり合っているのだろう、と思うと、またあれこれ妄想が湧いてくるのでした。

 
 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?