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天分を伸ばすことについて

 平生釟三郎の「天運と天分は神のなせる業で、残るは人の努力である」という言葉から、改めて教育を考えてみたいと思います。
 平生曰く、人間にはどんな人にも天分があり、それを磨く努力をしていかなくてはならない、ということです。そして、その努力が実ったら、こんどは社会に貢献せよ、というのです。これは「人生三期説」ともつながっています。天分を磨く努力をするのが修行時代、それを活かして社会で活躍するのが実践の時代、それが実ったら、最後はそれを社会に還元するのが奉仕の時代、ということになります。
 これに当てはめるなら、学校に通っている期間というのは、天分を見つけ、それを磨く時期です。よって、本来は、家庭教育、学校教育がその役割を果たさなくてはなりません。しかし、いつのころからか、個人の天分を見つけるよりも、外の評価軸をクリアすることに重きが置かれるようになってしまいました。これはもしかしたら、「人類皆平等」という思想からきているのかもしれません。人間はもちろん、存在としては平等ですが、能力は多様です。しかし、小学校では、「持って生まれた才能」というものを認めません。私の暗黒の小学校時代にも、「努力すれば何でもできる」「マラソンは先頭を走る人が一番しんどい」などと言われていました。(冗談じゃねえわ、走ることに向いていないから遅いんじゃ、と思っていました。)一方、勉強の方は、できてもあまり評価されません。「勉強ができるということを、特別なことと思ってはならない」という雰囲気が、小学校には満ちていた気がします(なぜなら人類は平等だからです)。今、不登校児が過去最多となっているのは、外の評価に合わせることにみんなうんざりしているからではないか?と私は勘ぐっています。
 
 私の持論は、「初めてしてみてうまくできることは向いている」です。それをきっかけに、向いていることはこれではないか?と自分で何度もチャレンジを重ね、どんどんその能力を伸ばしていってほしいと思います。それゆえ、自分が教育に携わる際は、ここを重視したいと考えています。
 平生は「ハサミやヤスリを持つな」と言ったそうです。一つの鍵穴に合う鍵は一つだけなのに、そこをヤスリで削って同じ形にしてしまうと、今度は同じ穴にしか合わなくなる、と説いたそうです。今の教育でうまくいっていない部分があるなら、まさにヤスリで削ることばかり目指していることだと思います。

 

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