b : board
ある日、そこに掲示板が立っていた。
ただの駅までの通り道。道としての違和感はそこにはない。
けれども、いつもの日常という時間軸を入れて考えると、そこに違和感が生まれる。
円いベンチがくるくるまわる遊具のある公園の前。
通称くるくる公園と呼ばれるその入り口に、掲示板が立っていた。
こんなものがあっただろうか。
見るととても見事な緑である。こういう色を深緑って言うのかしら。
こんなに派手な掲示板に今まで気づかなかった…なんてことはあり得ない。…と、思う。
恐らく昨日か今日かに設置されたもの。そう思いながらも、ところどころ穴があいて使い込まれた板を見ると、少しだけその考えに自信がなくなる。
掲示板には張り紙がしてあった。B5用紙を半分ほどにした紙(B6になるのかしら?)に、達筆な毛筆書きで何か一行書いてある。
「『ここにあなたのお願いごとを貼ってください』……?」
ふと、今日は七夕であることに気づいた。けれども七夕というものは、緑の笹に色鮮やかな短冊を吊るしてお願いごとをするものであって、緑の掲示板に単調な紙を貼り付けてお願いごとをするものではない。
まぁ紙は鮮やかでもいいのか。それなら違和感は形だけになるし。
…いや、その違和感は少し大きすぎる気がするけれど。
綾野が眼鏡の右つるをつまみながらしげしげと緑の掲示板を眺めながていると、
「お姉さんもここにおねがいごとするの?」
突然左から――正確には左下から声がした。小学2,3年生くらいだろうか。女の子が綾野を見上げていた。胸の位置ほどに切りそろえられた髪は結ばれずに下ろされている。
「お姉さんはね。今この掲示板を見つけたの。お願いごと、あなたはしたの?」
「ううん」女の子はかぶりを振った。
「……私は、できないの」
できない?
願いごとができないとはなんだろう。そういう呪いでもあるのか。あ、掲示板に背が届かないのかな?とも思ったが、それ程この掲示板が高いわけでもない。
綾野は疑問を声にしようとして口を開いたが、女の子の顔をみて一旦閉じた。しゃがんで彼女と目線を合わせる。
「あなた、お名前は?私は綾野っていうの」
「……しおり」
しおりと名乗った女の子はなんだか困ったような、どこか諦めたような、そんな顔をしていた。
「しおりちゃん。かわいい名前ね。私は綾野っていうの。しおりちゃんのお願いごとはなあに?」
質問をされて、しおりちゃんが少し驚いた顔になったのがわかった。眉を上げ、目線を逸らし、少し逡巡してから、やがてまた綾野の目を見て、迷うように、けれども想いを吐き出すように言った。
「……けんちゃんと離れたくない」
(うおっとぉ。女の子らしいお願いごとがきたぞぉ……)
少しだけ焦る綾野だったが、顔には出さないように努める。
これくらいの子供は笑っているのが一番。何とか笑顔にしてあげたい。
「おっけーしおりちゃん。お姉さんに任せておいて」
気持ちを切り替えて鞄を開け、いつもメモ代わりに使っている正方形の黄色い付箋を取り出す。
「『しおりちゃん が けんちゃん と ずっと いっしょ にいられますように』っと。ほら、これでどう?」
付箋を差し出すと、しおりちゃんがきょとんとした顔でそれを見た。
「これは私のお願いごとだから。でもこれが叶えば、私たち二人のお願いごとが叶うでしょう?」
言いながら立ち上がり、付箋を掲示板に貼る。念のため筆箱に入れていたホチキスを開脚させるように広げて、コの字型の針が垂直にささるように付箋の上からホチキスを何ヶ所か押し当てる。
よし。これで簡単にはとれないはず。
付箋の貼り付け作業を終えて満足な気分でしおりちゃんをみると、相変わらずきょとんとした顔をしていた。その顔に向けて綾野は精一杯ドヤ顔をキめる。3秒ほどその顔を見ていたしおりちゃんの表情がぱっと明るくなり「あははは!」と声を上げて笑った。
こんな純粋な笑顔、子供にしかできないだろう。
「ありがとう、アヤノさん。私、すごく嬉しい」
よかった。この子を笑顔にできた。
なぜだか綾野はすごく安心した気持ちになった。だが、ふと別の不安が脳裏をよぎる。
「あ、会社行かなきゃ!」
綾野は素っ頓狂な声を上げた。
「しおりちゃん、またね!」慌ててしおりちゃんの右肩をぽんと叩いて、綾野は駆け出した。
「ありがとう!アヤノさん!」その声を聞いて振り向きざま手を振った――しおりちゃんがいたところに。
振り向いてみると、しおりちゃんはそこにいなかった。
夜。いくら日が長くなったと言っても、22時にもなれば帰り道を照らすのは街灯の灯りのみになる。
同僚とカフェで今朝の話をしてみた。しおりちゃんは何者だったのか。考えてみるとランドセルも背負っていなかったし、学校はどうしたのだろう。尤も同僚とのお喋りでは、今自分がお願いごとをするとしたら何をお願いするか、という七夕の日らしい話題で結局盛り上がり、しおりちゃんの話は出勤中にかわいい女の子がいた、ということくらいしか話をしなかった。
くるくる公園の前に差し掛かる。掲示板の前でなんとなく足を止めた。
「あれ?」
朝貼り付けたはずの付箋がない。けれども代わりに、短冊と思われる紙が貼ってある。
『あやのさんへ
牽ちゃんとずっと一緒にいられるようになりました。本当にありがとう。
糸織』
あの見た目からは想像できない達筆な毛筆書きで、綾野へのお礼がしたためてあった。
やおら、綾野は空を見上げた。二つの強く光る星を探す。
すると一筋の流れ星が流れた。いつもより眩しく感じる星空の下、綾野は手を合わせてお願いごとをした。