i : install
「いつものインストールと何も変わらなかったよ。案外あっさりしたもんだな――」
ヒロトはベッドに寝転びながらつぶやいた。
「便利なのか寂しいのかわからないわね――運命なんてものまでインストールできるようになるなんて」
ミオリの声が頭に直接響く。脳に組み込まれたICが、音声を直接電気信号に変えて脳に伝える。
「で、いつその"運命の相手"に会いに行くの?」
「ああ。明日さっそく会えるらしい。10時に駅で待ち合わせ」
「そう。気をつけて」
そっけなさが、その声の寂しさを隠しているような、ヒロトはそんな気がした。
ICチップによる脳機能の拡張。義務教育をはじめ資格試験や受験、あらゆる場において多くの人を苦しめてきた知能格差は、生態埋め込み型ICの普及によって均一化され、平等化された。
さらにICは個々の才能や学習量を埋めるための役割だけではなく、人の習慣を変えることにも役立つ。
極端な例で言えば、薬物依存症患者の治療に用いられる。患者の脳に埋め込まれたICに、中毒症状を制御するプログラムをインストールする。それによりICが脳に働きかけ、中毒症状が出ないようホルモンバランスをコントロールするのだ。
もちろんそういった用途は、薬物に対するものだけではない。タバコでもギャンブルでも二度寝でも食べ過ぎでもなんでも、本人が『やめたい』と思った習慣は、ICにプログラムをインストールすれば、無理なくやめられるようになった。
「そしてその技術を、さらに発展させました――それが"運命プログラム"です。"運命の相手"をインストールすると、その相手とのコミュニケーション全てが、幸せな体験になります」
説明用の冷たい音声。"運命の相手"に会う朝、ヒロトは鏡の前で髪を整えながら、自分が持つ方の記憶を反芻した。
運命プログラム――特定の人物を"運命の相手"としてインストールすることで、その人物とのコミュニケーションに対し、ICが脳内のセロトニンやドーパミンといったホルモンをコントロールして、"幸せ"を感じることができるプログラム。
数年前、少子化に伴う施策により、ある年齢以上の未婚者を対象に、この"運命プログラム"を試験的にインストールすることが決まった。その試験対象に、ヒロトは選ばれた。
(あんなに初めは嫌だったのに。いざインストールされると、案外落ち着いていられるもんだな――この感情もひょっとして、ICが制御してんのか……?)
駅に続く道がいつもより長く感じる。ICによる脳の制御――十年ほど前まで、世の大多数の人々は、このことに激しい嫌悪を抱いた。だがICの埋め込みが普及するにつれ、人々の生活は改善し、犯罪者の数は減少した――欲望、嫉妬、恨み、嫉み、憎しみ――そういった負の感情さえ、ICによって根本的に取り除くことができる。
(まあ、そもそもいるかどうかもわからない運命の相手を、用意してくれるんだったらありがたい)
そう、運命の相手を。
――でも、だったらなぜだろうか。
ヒロトはその胸に、息苦しさを感じていた。
「あなた、物好きな人ね」
初めて声を掛けられたのは、地元の国立図書館だった。
「視覚拡張機能は使えるのよね? わざわざ紙の本を読むなんて」
唐突に本の世界から引き戻されたヒロトは、少々不機嫌になりながら声の主の方へ顔を向ける。
長い黒髪。理知的な目。温かみがあまり感じられないその声からも、お嬢様気質な女だと思った。
「そういう君こそ、どうしてわざわざ図書館なんかにいるんだ? ここは紙の本を読むところだぜ?」
不機嫌になったことを隠すこともしなかった。
するとふっと、お嬢様気質な女は、その表情を緩めた。
「私もその本の作者が好きなのよ」
声に温もりが宿る。
「私も物好きなの」
ヒロトはその柔らかな笑みに一瞬見惚れてしまった。赤くなったかも知れない顔をさとられないように、さりげなく本に視線を戻した。
「紙の本は、拡張された現実じゃない。あるがままの現実に足をつけながら、物語の世界に飛び込めるんだ」
何でもいいから喋ろうとして、繕おうとして、そう言った。
「そうね。拡張された世界と空想の世界の境界の線引――それを紙の本がしてくれる。あるがままの現実って、脳が感じる本能的な安らぎ、なのかもね」
はっとしてその顔を見た。紙の本を読み続けてしまう理由を、初めて教えてもらえた気がした。
その女性はミオリと言った。
「――ヒロトさん? ですか?」
回顧は突然遮られた。
見上げると、とても可愛らしいショートヘアの女性が、こちらを覗くように見ている。
そう。とても可愛らしい――運命を感じてしまいそうな。
「はじめまして。私は――」
23時。幸福の余韻が、未だ醒めないでいる。
ヒロトは"運命の相手"と別れたその足で、国立図書館に来ていた。
決して明るいとは言えないが、ホタルが放つような黄緑色の光が、ほのかに館内を満たしている。
入り口の扉を開けるとその光は、ゆっくりと染み渡るように、白色へと輝きを変えた。
ヒロトは思わず目を細める。
受付・管理・監視におけるほとんどのシステムは、ヒューマノイドや自律ロボットが賄っており、今では図書館に限らずほとんどの施設で24時間の利用が可能である。
だが、この時間の図書館には、流石にひと気は全くといってなかった。
――あるフロアを除いて。
「……?」
ヒロトが足を運んだ3階。
そこにひとつの人影が、椅子に座って本を読んでいた。
「……ミオリ?」
呼ばれた女性はガタンと音をたてて「うわぁ!」と叫び、椅子から落ちそうになった。
「ヒ、ヒロト……? どうしたのこんな時間にこんなところへ……あー心臓止まるかと思った」
胸に手をあてて肩で息をするミオリ。本気で驚いたようだ。
だがヒロトはそれを心配するよりも先に、言葉が出る。
「いや、それはこっちのセリフだよ。どうしてこんな時間に一人で図書館にいるんだ? いくら治安がいい世の中になったからって、危ないだろう」
「別にいいでしょ」まだ少し息を切らせながらそう言って、ミオリは目を逸らす。
「……どうだったの? 今日、運命のコと会ってきたんでしょう?」
目を逸らせたまま言う。
ヒロトの胸に、チクリと痛みが走った。
いつしか幸せの余韻は、どこか遠くへ消えていた。
「……もう、会わないでくれって言ってきた」
「……は?」
ミオリは間抜けな声を出して、ヒロトの目を見る。
「女の子泣かせちゃったよ。俺ってサイテーだな」
「いや、あんた……どうして? 運命の……相手だったんでしょ……?」
「まあな」そう言ってヒロトは思い出すように、中空を見上げる。
「可愛い子だったよ。目を見る度にときめいた。話す言葉ひとつ。仕草ひとつ。どれをとっても愛おしく感じた。まさに俺にピッタリの子だった」
「じゃあ、なんで……?」
「それだけなんだよ」
ミオリの問いを、ヒロトは静かな声で断つ。
「それ……だけ……?」
「ああ。それだけなんだ」ミオリの目を、ヒロトはまっすぐ見据えた。
「目を見るとときめくだけ。話してて、愛おしく感じるだけ。ああ、この子だったら、なんでも受け入れてくれるし、俺も受け入れられるだろうなって、そう思うけれど、それだけだ」
ミオリは混乱する。
「それの……何がいけないの?」
ヒロトは少しうつむいて、首を振った。
「……"運命の相手"っていうのはさ、多分、――単に"幸せ"を感じられる相手のことじゃないんだよ」
「……?」
ヒロトは続ける。
「単純な"幸せ"を感じるだけじゃ駄目なんだ。受け入れてもらえるだけじゃ駄目なんだよ。泣いて笑って喧嘩して仲直りして、合うところも合わないところも見つけならがら、葛藤しながらそれでも一緒に人生を作り上げたいって、そう思える相手が、"運命の相手"、なんだと思う。『運命』ってさ、『命を運ぶ』って書くだろう? 自分で、自分の命を運ぶんだ。一緒になりたい人のところにさ。実際に一緒になれるかはわからないけれど、一緒にはなれないかも知れないけれど、喜びも悲しみも楽しさも苦しさも、その人を通して感じたいって思って、その人のもとに命を運ぶ。そうことが"運命"なんだと、そう思ったんだよ」
そういってヒロトは顔を上げて、ミオリの目を見る。
「俺はさ、ミオリを通して、それを感じたいと、そう思っちゃったんだ」
ミオリの目が見開かれる。
「……ばっかじゃないの……?」
その目は心なしか、潤んでいるように見えた。
「どうすんのよ、それ……運命のコはどうするの?」
「あくまでも試験的なインストールだからさ。実際に付き合ったりするとかは、本人たちに裁量が与えられてる」
ヒロトは、肩をすくめてみせる。
「ま、運命ってのは、即席にインストールできないってことさ」
そのおどけかたが場の雰囲気にそぐわず、ミオリは思わずくす、と笑った。
「……でも、私があなたと一緒になりたいか、っていうのは、また別の問題よね」
「……え? そういう流れ? これ?」
くすくす、と続けて笑った。
「冗談よ」
ミオリは読んでいた本に手を置いて、そしてヒロトに見えるようにした。
ミオリが好きだと言った作者の本。
ヒロトとミオリを繋いだ本。
(運命――か)
余韻ではない温かなものが、その胸を満たした気がした。