c : coin
メニューを見ながら京子はかれこれ3分近く悩んでいた。
「抹茶ラテにしようかな…でもこっちのカプチーノでもいいかな…」
「君は抹茶が好きじゃなかったかな?」
微笑みながら、机を挟んで向かいに座る安藤教授が訊く。この喫茶店は席がソファで出来ている。
「大好きですよ。でもせっかくこういう、豆とか淹れ方にこだわってそうなお店に来たら、きちんとコーヒーっぽいもの飲んでみたいじゃないですか」
メニューを睨みながら京子は言った。論文の提出を間近に控えて徹夜が続いている。だからこそ、こういう貴重な息抜きの機会は少しでも大切にしたい。
安藤教授は京子の所属する研究室の教授で、統計学を専門とする。研究発表会に出席していた2人は、大学に戻る前に学校近くの喫茶店に入っていた。
注文を決めあぐねる京子に安藤教授は嫌な顔をすることもなく、優しく微笑みながら、けれども少しいたずらっぽく言った。
「よし、それならこれを使おう」
安藤教授は鞄の中から1枚のコインを取り出し、京子に手渡した。500円玉のようにも見えたが、掌に置いてコインを調べると、『A』と『B』の文字が各面に刻まれているのがわかった。
「そのコインは特別なコインなんだ」
「特別なコイン?」
「必ず幸せになる選択肢を選んでくれる」
そう言って安藤教授は、京子の掌からひょいとコインをつまみとった。
「もちろん二択の選択肢に限る。2つの選択肢をそれぞれ『A』と『B』の面に割り当てるんだ。そしてこうやって…」
ピンッと音を立ててコインが中空を舞う。右手親指によって弾かれたコインは高速に回転をしながらやがて自由落下を始め、それを安藤教授が右手の甲と左手の掌でキャッチした。
「『A』が抹茶ラテ。『B』がカプチーノ。さて、どちらの面が表かな?」
京子はカプチーノの薫りを嗅いで思わずにやけてしまった。なんて深みのある香ばしい薫りなんだろう。期待に胸を膨らませながら、けれどもゆっくりと味わうようにカップを口に運ぶ。すると、コーヒーの苦味とミルクのまろやかさが絶妙に絡みながら口に広がった。
うーん。幸せ。
「そのコイン、本物ですか? まぁ確かに、このカプチーノ、すっごく美味しくて幸せです」
京子は半信半疑で訊いた。コインは『B』の面を表にして、机の上に置かれている。
「本物だとも」
安藤教授はソファにもたれながら、うんうんと自慢げに頷いた。
「本来コインを投げれば、それぞれの面は等しく2分の1の確率でどちらかが表になる。統計学などを持ち出さなくても、直感的にわかることだ。…だが、このコインは必ず幸せになる面が表になる」
にっと笑みを浮かべる安藤教授。
「信じられるかい?」
机上のコインをじっと見つめる京子。
「…にわかに信じられません。けれど----」
「けれど?」
安藤教授のいたずらっぽい笑み。京子は薄々その意味に気づいていた。
「えっと、私は抹茶ラテを選んでも『幸せ』になれたんじゃないでしょうか…?」
単純なことだ。2つある選択肢の両方ともが、『幸せ』になりうるものであったら、コインはどちらの面が表でもいいことになる。
安藤教授はその答えを聞いて、満足気に頷いた。
「ふふ。その通りだ」
安藤教授はコーヒーを口に運ぶ。
からかわれた気分だ。
「じゃあ、そのコインはただのコインで、『幸せ』じゃない選択肢だって選びうるってことですよね--------二つの選択肢が、必ずしも両方幸せとは限らない」
もっと言えば、二つの選択肢の両方共が不幸せになるということもあり得る話だ。
「よくぞ気付いた。その通り--------と言いたいところだけれどね」
安藤教授は続ける。
「実は、やっぱりこのコインは『幸せ』な面しか出ないんだよ」
京子は怪訝な顔をした。意味が理解できない。
「さっきのはからかった訳じゃない。一度体験してみた方が、これからの話が入りやすいと思ったんだ」
安藤教授が少し身を乗り出す。
「面白い実験があってね。6枚のモネの絵を用意して、被験者に価値があると思う順番に並べてもらう。並べてもらったあと、3番目と4番目に選んだ絵は、それぞれ余りがあるから好きな方を持って帰っていいと被験者に言うんだ。被験者は普通3番目に選んだ絵をもらう。当然だね。そちらの方に価値があると思ったのだから。ただここで重要なことは、被験者にその絵を『選択』させるということだ。後日、もう一度同じ6枚の絵を用意して、また価値があると思う順番に並べてもらう。…すると、どんな結果が生まれると思う?」
「…自分が『選択』した絵を、1番にもってくる?」
「その通り」
安藤教授が京子を指差す。
「自身がかつて『選択』したものに、より価値を見出すようになるんだ」
乗り出していた身をソファに預け、手を組みながら言った。
京子は腑に落ちない。
「でも教授。…それは自然なことではありませんか? 自分のものになった絵は、例えば家の壁に飾るとかすると思います。身近になった絵に親近感なり愛着なりが湧き、それに価値を感じるようになるのは当然だと思います」
「うん。鋭い意見だ。君は賢いね」
安藤教授が再び身を乗り出す。
「確かにこの話だけ聞くと、自分の所有物となったものに価値を見出そうとするのは自然なことのように思える。だがこの話には続きがあるんだ」
京子は訝しげに話を聴く。
「今度は被験者を、前向性健忘性の患者に変えて行った。この患者たちは、記憶が数十分と続かないんだ。この患者たちに、同じ実験を行う。つまり、初めに6枚のモネの絵を価値があると思う順番に並べてもらい、次に順に並べた3、4番目の絵のどちらかをもらっていいと被験者に言う。やはりここでも通常は3番目の絵が選ばれる訳だけれど、健常者のときと同様に『選択』をさせるわけだね。選んでもらった絵は後日宅配で自宅に届けておくと伝える。だが30分後には、その被験者たちは実験のことも、絵を選んだこともすっかり忘れてしまうんだ。その上でまた、同じ6枚の絵を価値があると思った順番に並べてもらう。
…どんな結果になると思う?」
「…まさか」
京子は目を見開いた。
「そう。記憶が無いはずの前向性健忘性の被験者たちは、健常者の実験結果と同じように、一度自分で『選択』した絵をもっとも価値があるものとして選ぶんだ。自身がかつて、その絵の価値は3番目だと断じたことを忘れてね」
京子は耳を疑った。
「『幸せ』はそういう意味で、自らが『選択』したものだと言える。自ら『選択』したものから、脳が『幸せ』を感じるように、『幸せ』をつくりだすように、そう出来ているんだ」
安藤教授はそう言って、コーヒーを口に運ぶ。
「まぁその抹茶ラテの場合は、コインに『選択』を委ねたわけだけれど、その《コインの結果に『選択』を委ねる》、というのも『選択』といえるだろう」
「…でも、それって…、一面、何を『選択』したって幸せとも言えるかも知れませんが、見方を変えれば何を『選択』したって同じこと、ということになりませんか?」
それでは…生きる意味さえ揺らぎかねない。
「極論を言えばそうかも知れない。だが、私はそうは思わないよ。人生とは『選択』の連続だ。楽な道を『選択』できることもあれば、辛く苦しい道を『選択』しなければならないこともある。だが辛く苦しい『選択』にだって、『幸せ』を見出すことが出来るということに、私はむしろ希望をもてる」
安藤教授はコーヒーを一気に飲み干した。
「それに私は、人の『幸せ』が確率論的な、統計的なものでくくられるのは、嫌だからね」
そう言って安藤教授は微笑んだ。その笑みは、いたずらっぽいものではなく、なんだかとても温かみを感じるものだった。
初めは話を懐疑的に受け止めていた京子だったが、安藤教授のその笑みを見て、むしろなんだか温かいものが込み上げる。
(私は何を『選択』したって、『幸せ』なのか…)
そう思うと、これからの自分の『選択』に、少しだけワクワクしてくる。
「さて、最後に種明かしだ」
安藤教授の笑みが、またいたずらっぽいものに変わる。すると、机の上のコインをくるりと裏返した。
「…え?…うそ!?」
『B』を表にしていたコイン。
…それが、裏返されても『B』のままだった。
「はっはっは。手品用のコインでね」
安藤教授が笑う。
「徹夜続きだろうが、このあと卒論の続きを書くんだろう?それなら、カフェインを取ったほうがいいと思ってね」
唖然とする京子を残し、安藤教授は伝票を持って席を立った。
参考:
ダン•ギルバート:「私たちが幸せを感じる理由」 https://www.ted.com/talks/dan_gilbert_asks_why_are_we_happy?language=ja&utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=tedspread