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 パチッ。

 スピーカーから碁石の音が響く。女性の声がそれに続いた。

「白、4の五、コスミ」

 会場に所狭しと並んだ椅子には、これまた所狭しと大勢の記者がひしめいている。会場前方上手のスクリーンには、2人の男が碁盤を挟んで向かい合っている様子が映しだされていた。上手側に座る男は、韓国のトップ棋士――イ氏である。もう片方の男の真横には、デスクトップパソコン用の大きさと変わらないモニターがおいてある――人工知能対局ソフト「BetaGo」が対局しているのだ。男性はこのモニターみながら人工知能の代わりに、碁石を打っていた。

「ここまで第2局と全く同じ手順でしたが、ここでイ氏が変化しましたね」

 正面には大きな碁盤が黒板のように壁に設置されており、磁石で設置するのか碁石が貼りつく仕組みになっている。それを使って、2人の男が対局の様子を解説していた。

「……相変わらずなんのこと言ってんのかさっぱりですわ。囲碁って何が面白いんでしょうかねぇ」

 野沢が、退屈そうに上司の池原に言った。2人は同じ新聞社の記者で、彼らもこの対局の取材に来ていた。

「囲碁の面白さは私もよくわからない。だがこの5日間は、人類にとって歴史ある5日間だよ」

「はぁ。人類の歴史は何万年だかわかりませんが、俺にとってのこの5日間は、地獄のような長さですわぁ」

 座ってるだけで仕事になるからいいっちゃいいんすけどね――野沢は欠伸で声を裏返しながらそう言った。

 チェスの世界では、21世紀に入る前から、度々コンピュータはトップチェスプレーヤーに勝利を収めてきた。将棋の世界では長らくコンピュータはプロに勝つことができなかったが、ここ2、3年で度々コンピュータがプロ棋士を打ち負かし、それがニュースにもなった。

 囲碁の世界では、コンピュータがプロに勝つのはあと10年はかかる――そう言われてきた。しかし近年、新しく考案された手法により、囲碁におけるコンピュータの実力も急激にあがりつつあった。

 その手法は、人工知能をとりいれたものだ。囲碁において総当り的に対局の打ち手を計算すると、文字通り天文学的数字――10の360乗という計算量がかかる。これは、ビッグバンが起きて(つまり宇宙が生まれて)から現在に至るまで、現在のスーパーコンピュータが計算をし続けても、未だに計算が終わらないほどの計算量である。だが当然、人間は頭のなかでその計算を行って囲碁を打つわけではない。人間は、地合――碁石によってつくられる陣地を俯瞰し、抽象的に、直感的に判断して手を決める。この「陣地取りゲーム」という囲碁の特殊性――抽象性によって、半ば必然的に、これまで人間はコンピュータに対して優位を保ってきた。

 だがBetaGoは特殊なアルゴリズム――計算手法によって、膨大な対局データを学習、シミュレーションし、この「人間の思考」をトレースするよう訓練されたプログラムなのだ。

 囲碁の世界ではプロ棋士に勝てないと言われていたコンピュータだったが、BetaGoは初めてその常識を覆した。そしてついに、世界のトップ棋士――イ氏との対戦が5日間にわたって行われることになった。

 対局前、囲碁業界では世界最強と言われるイ氏に期待が集まっていた。

 ――だが昨日、イ氏の3連敗が決まった。人間はもう囲碁でもコンピュータに敵わない――と、諦めのムードさえ漂い始めていた。

(世界最強と言われる棋士が、こんなにもあっけなく負け越すのか)

 もう消化試合とも言っていい対局を眺めながら、池原はぼんやり考える。人間の考え方を模倣する人工知能――ふと思いついたように、野沢に訊いた。

「なぁ、野沢。そもそも人間と動物って、何が違うんだと思う?」

 野沢はビクッと身体を震わせた。半分寝ていたのだろう。

「なんすか池原さん。いきなり」

「いや、人間と人工知能について考えていたら、なんとなくそんなことを考えてな」

 池原はモニターから目を離さずに言う。野沢はその様子を見て訝しみながらも、「うーん」と思案する。

「人間と動物の違い……考えるか考えないか、ですかね」

「動物だって、考えることはするんじゃないか? 言語という表現方法がないだけで」

「じゃぁ、賢いか賢くないか――まぁ、案外人間の方が愚かって見方もできるから、知能の高さ、といった方がいいのかもしれません」

「それも、人間の指標で単に測れないだけなのかもしれない」

「うーん――池原さんの思う、動物と人間の違いってなんですか?」

 池原はそう野沢に問われて、自分でその問の答えを用意していないことに気づいた。思いついたことをそのまま口にしたのだから、当然とも言える。

(動物と人間の違い。知能の高さでないところに求めるとすれば――)

 池原は少し間を開けてから答えた。

「――進歩か進化か、かな」

「進歩と――進化? どういうことすか、それ」

「俺もほぼ思いつきで答えているから、まとまってないんだが……」と池原は前置きする。

「動物は、環境の変化に応じて、その生態を進化させ、環境に適応してきただろう。進化して環境に適応できた種が、次の世代に残るわけだ。一方人間は、環境が変化すればそれに適応するための知識を駆使し、また環境が変化しなくても、そのときの環境をより快適にするための工夫をする。そして、その知識や工夫は次の世代に受け継がれるわけだ。これは進歩と言えないか?」

「はあ。なんか変な考え方ですね。でもそれ、かっこいいです」

 野沢は感心した素振りを見せる――が、ふと何かに気付いたような顔をした。

「けど、池原さん――」

 パチッ。

 碁石の音が スピーカー越しに響く。解説者が打たれた一手を解説する。その声を聞いているのかわからない表情でスクリーンを見ながら、野沢は続けた。

「――人工知能が、人間の知能を越えて、そして自ら進歩するようになったら、人間の価値って、一体何なんでしょうか」

「……」

 池原は沈黙した。

「まぁ、そもそも人間の価値が何なのか、たまに俺は疑問になりますけれどね。こう、地球規模で考えると、人間ってすごい不要だと思いません? 動物は、生態系をそのままあるがままで乱さないじゃないですか。そこに人間の手が加わることで、いわゆる『生態系が乱れる』ってことが起きるわけですよね。なんでそんな因子を、地球は生み出したんでしょうかねぇ」

(妙なことを言う)

 妙なこと――と一笑に付すこともできたが、池原は野沢のいうことを否定出来ない。野沢は見た目こそ浮ついたやつ――と池原は思うと同時に、記者になるだけあって様々な視点で物事を捉える。そこを池原は評価していた。

 野沢の(妙な)言葉を頭で反芻したとき、ふと池原はある言葉を思いついた。

「――特異点」

「はい?」

 池原の唐突なつぶやきに、野沢は思わず聞き返した。

「特異点――シンギュラリティ――だなって思ったんだよ」

「何がですか? ブラックホールの話ですか?」

「いや、人間のことだ」

 野沢は何の話かわからず、混乱した。

「地球にとって、人間が生まれたことって、特異点だなと思ったんだ。『あるがままで乱されない生態系』を『主体的に乱す』存在――これって、特異点だと思わないか?」

「ああ。なるほど」

 野沢は、池原が話すことをようやく飲み込んだ。

「池原さん、妙なことおっしゃいますね」

「お前にいわれたくはないよ」

 池原は苦笑して続けた。

「地球にとってのシンギュラリティ――人間が、いま、新たなシンギュラリティを生み出そうとしているわけだ」

「……人工知能、ですか」

 パチッ。

 野沢は、響く碁石の音が、ふと人間が生み出す特異点へのカウントダウンのように聞こえた。

 地球が生み出した特異点――これは、意義あるものだったのか。

 人間が生み出そうとする特異点――これが、人間の意義をどう定義づけるのか。

 池原の言葉によってそんなことを野沢が考えていると、突然ざわめきが起きた。解説者が、興奮した様子で解説をしている。

「何が起きたんでしょうか」

 その様子に気づいた野沢が、池原に訊いた。

「ああ。どうやら、劣勢だった棋士が、会心の一手を放ったようだ」


 その日の対局は、トップ棋士のイ氏が4日目にして初めての白星をあげた。人工知能BetaGoは、予想外の一手になすすべもなく、さらにはミスを重ねて投了――降参したのだ。

「一矢報いましたね。まだまだ人間も捨てたもんじゃないってことですかね」

「そうだな。今日のイ氏の勝利は、人間にまだまだ可能性があることを、証明してくれたように思うよ」

 池原はそう言いながらも、遠くない未来――人工知能が、本当に人間を超えてしまうんじゃないか――虚しさとも寂しさともわからない、そんな感情をどこかに感じていた。

「――池原さん、今回の、このトップ棋士対人工知能の記事――私に書かせてもらえませんかね」

 横で野沢が唐突に言った。池原はその主張に驚く。

「珍しいな。お前はいつも、自分の好きなものにしか手をださないのに」

「いやぁ」野沢は少し照れながら言った。

「池原さんとの話で考えたのですが、人間に意義がなくなるっていうのは、なんだか寂しいじゃないですか。実際、池原さんのいう、特異点――シンギュラリティがきたとき、それでも人間に無限の可能性があるってことを、この対局を通して書いてみたいと思ったんです。俺、こう見えて熱いときは熱いオトコなんですよ?」

 池原はきょとんとした様子で野沢の話を聞いていた。

「案外、地球にとってのシンギュラリティも、これからかも知れませんよ――人間は過ちや失敗を繰り返したかも知れませんが、いろんな文化や文明を発達させてきたわけでもありますからね。まさに地球はここまで見越して、人間を生み出したのかも知れません。だって、動物だけの世界って、平和だけれど平坦じゃないですか。ドラマがないじゃないですか――」

 野沢が熱く続ける。

「――だから、進歩する生き物が、きっとこの世界に現れたんです。こうやって、いろんな文化や文明を発達させるために。いろんなドラマを――シンギュラリティをつくるために」

 まぁ、おとぎ話みたいな考え方ですけどね。

 そんな言葉を付け足して。

 野沢は笑顔を池原に向けて言った。

「……お前の好きにやってみろ」

 妙な話だとは、思わなかった。

 野沢は「ういーっす」っと嬉しそうに答えて、ホテルへの帰路を先に進む。

(どんな未来になろうとも、歩み続ければいい。進歩し続ければいい)

 それこそが、人間の意義なのかもしれない。

 とりあえず池原はそう思うことにして、そう信じることにして、ゆっくりと野沢の後を歩み進めた。

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