d : diary
騒がしいアラームの音。
掌を打ち付けるようにアラームの音源を叩く。
ベッドでうつ伏せになっていた園原は頭だけ左に向け、今しがた痛めつけたデジタル時計を見た。
時計には《7/20 Wed 27℃》の字が映しだされている。
(今年3回目の7月20日――、か)
少しそのまま物思いにふけてから、ベッドを出て身支度を整える。
ふと、机の上に置かれた日記帳を見る。手にとって、昨日――体感的には3日前に書かれた昨日の日記を読む。
『7月19日(火)晴れ
今日は夏休み前最後の授業があった。明日は終業式。俺はきっと麻美さんを祭りに誘う』
シンプルな短い日記。だが、今の園原にとっては、この日記が拠り所だった。
日記を閉じる。机にそれを戻し、今年3度目の夏休み前の終業式に出席するため、自宅を後にする。
その日記帳を手にしたのは偶然だった。
惰性で読んでいたまとめサイトに、胡散臭い広告が貼られていた。
『これであなたの人生は、何度でもやり直せる!詳しくはこちらをクリック!!』
こんな宣伝に引っかかる奴がいるのかな、と思いつつも、その広告にはとりあえずクリックしてみようと思わせる魔力があった。
遷移したサイトには、日記帳の紹介が書かれていた。
『普段は普通の日記帳としてお使いください。そして後日、書いた日記を声に出して読めば、その日記を書き終えた直後にタイムリープすることができます』
なんでそれを購入したのかわからない。
気付いたら園原は高校生にとって極めて貴重な3万円と引き換えに、その日記帳を手に入れていた。
日記帳は注文した翌朝に届いた。早い。それでも寝て起きたらだいぶ冷静になっていて、日記帳を買ったことを後悔した。翌日にそれが届くのは、冷静になってからキャンセルさせる時間を与えない為なのだろうか。
その日記はなんの変哲もないものだった。とてもタイムリープなんて大層なことができるようには思えない。だがせっかく買ったのだから、とりあえず一度は試しみよう。こんなものに目がくらんだ自分を嘲笑しながら、騙されたつもりで試してみよう。
そう思って園原は、翌日の夜に前日の日記を声に出して読んでみた。マニュアルによると、こうするだけでよかったはずだ。
園原が気づいたとき、窓から日差しが差し込んでいた。とても深く眠っていた気がする。
園原は初め、時が戻ったことに気付かなかった。
今日の朝と明日の朝は一見すると変わらない。例えば今朝雨が降ったとして、次の日の朝にも雨が降っていても、普通時間が戻ったとは思わないだろう。日常とは、それほど変わり映えのないものだ。
けれども社会の中で生きていれば、否応なくそれを知ることになる。
デジタル時計が示す日付。昨日報道されていたテレビ。昨日聞いたはずの授業。
それらが、時が本当に戻ったことを園原に教えてくれた。
タイムリープによる時間の戻り先は、読み上げた日記の直後と書いてあったが、その際意識を失う。必然的にタイムリープを認識するのは、読み上げた日記をつけた日の翌朝だった。
厳密には、この体ごと時空を飛ぶ訳ではないらしい。日記を書いたその時を基点に、過去の自分へ現在の記憶を映し込んでいる、みたいなことがマニュアルに書いてあった。なんだか世界5分前仮説みたいな話だが、主観的には時間が戻っているようにしか思えないから、その辺りはどうだっていい。
初日――初めの7月20日(つまりタイムリープはしていない)。園原は放課後に、麻美へ声を掛けようとした。けれども彼女の友達がずっと一緒で、声をかけるタイミングが見つからず、結局そのまま帰宅した。
2回目の7月20日は、朝のホームルー厶が始まる前に声を掛けようとした。朝の教室に1番にきて一人麻美を待ち受けていたが、考えてみたら麻美も一人でやってくるとは限らない。ついでに2番目にやってくるとも限らない。そのことに気づいたとき、夏休みを明日に控えたクラスはいつもよりも賑わいをみせており、麻美も例外なくその中に入っていた。結局そのまま何もできなかった。
そしてまた朝を迎える。未だに日付は7月20日。園原だけ夏休みがやってこない。なんだかもったいない気分だったが、考えてみれば日記帳を使えば、永遠に夏休みを満喫できることに気付いた。素晴らしい発見だと思ったが、このままだと当分夏休みを迎えられない。
放課後、園原は麻美の帰路を辿った。より正確にいうと、下校する麻美の後を尾行した。偶然を装って声をかけようかと思ったが、学校近くの十字路から、麻美と逆方向に帰る園原にとって、その偶然の言い訳は思いつかない。都合よく本屋にでも寄ってくれないかとも思ったが、麻美は寄り道することなく、真っ直ぐ帰宅した。健全な女子高生だ。
結局その日も何もできなかった。
家に帰って園原はベットに突っ伏した。自分の根性のなさに、いい加減呆れてくる。明日、ではなく次の今日はどうしようかと思って、日記帳を手に取り眺めていると、ふと、中学生のときに気まぐれでつけていた日記帳を思い出した。もちろんタイムリープなんて機能のない、ごくごく普通の日記帳である。
確か机の引き出しに入れてある。記憶を頼りに捜すとすぐにみつかった。
パラパラ眺めていると、ちょうど一年前、中学3年生であった終業式の日の日記を見つけた。
『7月17日金曜 晴れ
今日は終業式だった。明日から夏休み。麻美さんを祭りに誘いたいけれど、結局声を掛けられなかった。このまま卒業まで進展もないのだろうか。夏休みは彼女の姿を見られない。夏期講習もある。憂鬱な夏休みの始まりは初めてかも知れない。』
園原はその日の日記を見てしばらく固まった。
一年前から何も変わっていない。
たまたま麻美と同じ高校の同じクラスになれたときは、園原は天にも昇る気分だった。ひょっとしたら、ただの中学校のときのクラスメイト以上の仲に、進展できるかもしれない。
だがいざ、高校生活が始まってみると、それ以上の接点はなかった。ただ麻美の姿を追うだけの毎日だった。
――日記とは、過ぎゆく今日に別れを告げ、明日への歩みを始めるもの。
ふと、何度も過去をやり直した園原は、そんなことを思った。
同じ今日を諦められず、同じ場所で歩みを止めている自分がいる。
園原は、今、ここで前に進まないと、永遠にこの7月20日から逃れられないと思った。
「…こんなもの、必要ないな」
園原は昨日――7月19日の日記を破り、丸めて屑かごに入れた。
同じ今日は、もういらない。
スマホで連絡先を検索する。中学生のとき、一緒に図書委員をしていたときに教えてもらった連絡先。
相手の声は、2コール目を待たなかった。
「……もしもし?えっと、園原くんだよね?」
園原の夏休みは、ようやく、始まる。