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神様はいなかった②母と私

母子家庭の母一人、子一人。私の人生の傍らには、いつも母の優しい笑顔があった。
母親であって、親友であって、姉のようでもあって、時々妹のように無邪気なかわいらしい人だった。
高校卒業後、3年半ほど上京して離れた以外は一緒に生活していたので、ほったらかしにしていなかったという点では少し親孝行できたと思う。
脊髄小脳変性症も徐々に進行してきて、2週間ほどの入院を年に2~3回繰り返す状態だった。
そんな中、母に膵臓癌が見つかった。あまりに突然の告知だった。
2020年4月22日。この日以降、私たちの生活は一変する。
かかりつけだった病院の系列病院にすぐさま転院することになり、母を車に乗せて向かう最中、私は運転しながら手が震えていたし、明らかに動揺していたし、ちょっと油断すると涙が出そうだった。母は繊細で気にするタイプの人なので、母より先に泣くわけにはいかない。
天気の話や道路沿いの店の話、今話さなくてもいいようなどうでもいい話をしていた。
後部座席の母の顔は見えない。

母が転院した病院は、私が以前勤めていた病院だ。
医師や看護師、検査技師に事務職員も気心知れた顔ぶれがそのままあって、退職後も交流のあったスタッフが多くいたため本当に心強かった。
良く知っている医師が担当してくれることになった。

造影CTを待合で待っている時「目が赤いけど大丈夫ね?きついんじゃないのね?」と母が問いかけてきた。
「目が痒い」と言ってごまかしたらホッとしたように笑っている。
自分のほうがつらいはずなのに。
自分のことだけ考えてたらいいのに。
母はそう言う人なのだ。

母の名前が呼ばれて検査室へと見送る。造影CTをしている10分ほどの間に何度もトイレで涙をふいた。
死なないで
死なないで
そればかりを頭の中で繰り返していた。

母は先に病室へと案内されて、私だけ診察室で造影CTの結果を告げられる。
6センチほどの膵臓癌で、こんな大きさの腫瘍は見たことない。
ここまで大きくなる過程で痛みも相当出るし食欲も落ちるが、母の腫瘍は神経を上手く交わして進行したため、一般的な症状が出ずに発見が遅れたのではという見解だった。
すでに肝臓にも転移していてステージ4b。1年生存率は20%だと言われる。
入院して抗がん剤投与を始めると言うが転移があるため手術もできず、抗がん剤治療をしたとしても完治など見込めない。
どうしたって遠くない未来に「死」を強く意識してしまう。
来年の今頃、母は生きていられるのだろうか。
こんなに傍にいて、どうして気づいてあげられなかったのか。
母が何をしたって言うのか。神様なんか絶対いない。

膵臓癌であることは前院で母も知らされているけれど、厳しい状況であることは主治医とも相談して伝えないことにした。
少しでも前を向いて治療して欲しくて、もうこれ以上母につらいことを言いたくなくて嘘をつくのだ。
これから起きる一切のことを私が引き受ける。そう決めた。

母の病室に行くと母は心細そうにベッド脇に座っていた。
勤めて明るく「抗がん剤治療始めるって言ってたよ。頑張って良くなろうね。何にも心配しなくていいよ」と話す。
母の顔を見ると我慢している涙があふれそうだったから、荷物の整理やベッドサイドを整えながら話した。
「食欲もあるのにね。本当に癌なのかね」ポツリと母が言う。
「本当なら吐いたり痛かったりするのにね。ご飯たくさん食べれて良かったね!食べれたほうがいいんだから」そう答えると
「そうね。食べれたほうがいいもんね」と母が笑う。
そうだ、この笑顔を守っていこう。私が大好きな母の笑顔を見ていたい。
母が笑っていられるように、母の前で泣いたり不安がったりするのはやめよう。

病院を出る頃には日が傾いていた。駐車場の植木が夕日を受けて黄色い葉が際立ってきれいだった。上手く表現できないが、黄色以外は周りの風景の色が薄く見えていたように思う。
駐車場に止めた車の中でしばらく泣いた。ここなら誰もいない。いや、母が居なければ誰が居てもいい。
涙を1日中我慢していたのだ。堰を切ったようにと言う言葉通り、わんわん泣いた。心が砕けてしまうような長い1日だった。