沈黙に救われる日々 ①母と私
2020年9月8日。
私は母を亡くした。
母子家庭の一人っ子なので、世の中にひとりぼっちになってしまったかのような孤独感にあっという間に引き込まれた。
母は生まれつき神経難病を患っていて(脊髄小脳変性症)、私が小さな頃から周りの友達のお母さんとは少し違った。
ちゃんと文字が書けなかったし(ものすごく斜めで、ものすごく下手)、水が入ったコップを上手く運べなかったし、歩き方もおかしかった。そう言った病気だと診断されたのは母が55歳くらいの時で「やっぱり病気だったんだ」と、妙に納得したのをよく覚えている。診断される前も後も、母は人一倍仕事をする働き者な上に弱音なんて吐かない辛抱強い人だった。 私の自慢。
母の病態は年齢と共にゆっくり進行するタイプで、その通りに年々できることが減っていった。
親孝行と言うと気恥ずかしいけれど、女手ひとつで育ててくれた母に何かしたくて介護するつもりで私は会社勤めを辞めて起業した。
ゆっくり恩返ししていこう。たまに口喧嘩もして同じ回数仲直りもして、入退院を繰り返しながら8年程ゆるやかな暮らしをしていた。
2020年4月22日。
母に膵臓癌が見つかった。この時点で肝臓にも転移していてステージ4b。
なんでこんなことになったのか。
なんで母ばかりこんな重い病気をしなきゃならないのか。
私がへこたれている場合ではなかったけれど、食べ物の味がしないし、目に映る景色に色彩を感じなくなったし、とにかく母が心配で悔しくて泣いてばかりいた。
母の癌闘病が始まって、母を見送った瞬間までの約5か月の間は、とてつもなく心をすりおろされるような出来事が待っていた。
私はこの期間の出来事や感じたこと、懸命に生きようとした母の頑張りや私の葛藤をひとつも忘れたくない。
母の葬儀に参列してくれた方々が「親を見送るのはみんな通る道だから」とか「時間が癒してくれるから」とか、労りと慰めの言葉をかけてくれたけれど、どの言葉も耳を通り過ぎるだけで涙が止まることはなかった。
母と私の一体何を知っているのか。
ずっと二人一緒に生きてきた片割れが忽然と居なくなってしまう喪失感がそう簡単に理解されてたまるもんか。
見当違いなやさぐれた感情があったおかげで葬儀と火葬までの間、息をしていられたと思う。
母の一生は幸せだったのだろうか。
答え合わせすることはもうできない。
母が溺愛していた三毛猫マンチカンは、母の仏壇の前に陣取ってまるで女子会をしているかのように長居する。
悲しい気持ちに黙って寄り添ってくれているようで、私はこの子の沈黙に本当に救われた。今もそうだ。
急変して逝ってしまったので伝えたいことも、聞きたかったことも、してあげたかったことも、して欲しかったことも、全部置き去りのまま。
一方通行でもいいから、私の言葉が母に届くといいなと思う。
そう言う思いを、記憶をこれからゆっくり大切に綴っていく。