再会は思いを鮮やかにする
仕事で社内の教育映像のようなものに出演することがある。もとは自分がやりたいと手を挙げた仕事。その仕事のために東京にきた。それもあって社内では顔が結構割れている。それが人気かは知らない。
自分の顔色の向こう側にある何かは届かない。仕事は淡々と続けた。その反応がワタシにまで届くことは少なくて、仕事の途中に顔を合わせた時に些細な言葉をもらうくらい。それで喜んだり、傷ついたりしている。
先日、職場にまだ映像の仕事をする前の、新入社員の頃のワタシを知る先輩が赴任してきた。支店は違う。知っていただけていることは嬉しいが、なぜ知っているのかの判別が非常に難しい。社内では顔が割れている。
馴れ馴れしいと思われたくない。でも冷たいやつと思われたら損だ。人見知りのさらにややこしい部類だ。名前もうる覚えで顔を覚えることも苦手だから克服したいともう10年くらい思っている。
会話をすると「実は君とは近くのお店で働いたことがあって」と言われて初めて安心する。「ああ、ホントにワタシを知ってるんだ。」
間髪開けずに「ですよね」と返す自分も性格の悪いやつだ。
その後に「良かったね」と言われた。東京に来てから昔のワタシを知る人はどんどん減っている。転勤、転職のなかでいまどこにいるかわからない仲間もいる。
昔話ができない。いつのまにかこの2、3年の自分が人生の大半じゃないかと錯覚してしまうほどになってしまった。
それが「不味い」と思ってはじめた1つがnoteだった。地元九州の現地社員から見知らぬ東京の本部社員へ。活躍の場を移すことは孤独との戦いでもあった。
少し話を戻す。再会した先輩から「よかったね」と言われた。それが何かのきっかけになりそうな感覚もあって、嬉しかった。
辛いことがたくさんあったが、元はといえば自ら望んだいまの道。当時のワタシを知る人からすれば「もと芸人、タレント志望の社員が収まるべきところに収まった」という印象があるようだ。
若い頃には迷うことがたくさんある。誰の言葉でもないが、迷えば頼りにしていることがあった。
「過去の自分を裏切らない。」
その言葉だけに素直に生きてきた。夢にしがみついた。でもその言葉はいつのまにか都合のいい言葉になって、ついにはその言葉さえ忘れかけていた。
辛いときにはつい視野が狭くなる。自分を追い込んでしまう。悪循環に陥ってしまう。でもきっかけがあればいつでも復活できると思えた。
まだまだこれから、過去の自分が描いた絵を見ながら、新しい自分を歩んでいきたい。都会がなんだ、会社がなんだ。