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2/21 「まぁるい虹」最終回に向かって

おはようございます。
先日ちょっと触れた水木しげる『猫楠』で、今回読んで印象的だった部分。もともと熊楠は猫語も話せるのですが、そこに伝説の「金華猫」という人語を話す猫が登場し、両者の間にこんな会話が交わされます。

金華猫:わしは 人間が一番肝心なことを知らんのが残念に思う 。
熊楠:わしは猫は、猫が日頃何を考えて暮らしているのか謎だった。
金華猫: お前も考えている通り、肉体はなくとも 死後 霊は存在する。いやむしろ「死後」の方に本当の生がある。
熊楠: なるほど。
金華猫:驚かんでもいい。死後の世界……、人間はそれがわからんもんだから、一生うろたえて過ごす。
熊楠:なるほど金華猫は、あの世とこの世の往来できるから分かっとるんやな。人間に「死後」がそんなに素晴らしいことが分かれば、誰もあの世に行きたがるからな
。(93㌻)

これ、ワタシが幼いころから考えてきたことへの答えでもあるんです。
ずっと「猫は何を考えているんだろうな~」と思っていた。
寺の子として生まれたせいか「死」は日常であったものの、死後の世界は想像がつかないのでした。ただ死後の世界を恐ろしいとは考えなかった。

やがて30代でキャットシッターを創業し、40代愛猫ドドを見送ったとき、横田和尚に出会い、「今ここ」という考え方を教えてもらいました。
これはひとつ大きな氣づきでした。

さて「ペットロス」という思想が、アメリカから入ってきたときとほぼ同じころ、「虹の橋」という詩が普及しました。亡くなった動物たちは、虹の橋のたもとであなたとの再会を待っているというもの。
これは非常にこころに刺さりやすいので、正直ワタシ自身もこのイメージの死生観だった時期が長かったです。
でも、どこか「嘘くさい」とも感じていた。
みんなと同じなわけがない、と。
とはいえ、やはり死後の世界は、悲惨なものではなく楽しいことが待っている世界であるという根本は揺るがずにいました。

『猫びより』に「まぁるい虹」という死生観をテーマにした連載が始まったのは2013年の7月号で、以来仕事としても死生観を考え続けることになりました。実はこの連載、今年の夏号が最終回(第68回)となることが決まっています。いろんな意味で、区切りをつけるいいタイミングと受け止めていて、今最終回に向けて「総まとめ的なことを書けたら」と考えているところです。
なので、金華猫の「死後」がそんなに素晴らしいことが分かれば、というセリフに「そうそう、そうだよね、やっぱり~」と、大きく頷いているんですね。

「まぁるい虹」67回目の原稿(最終回ひとつ前)はすでに書き終え、ここでに「虹の橋のたもと」の進化系を示しました。御興味ある方はぜひ3月発売の『猫びより』をご覧くださいませ。

そして、猫語も死後の世界も「分からないからいい」。
猫の言うことが分かったら、同居する身としてはけっこう落ち込むかも、です、ハハハ。
人間関係なんでも正直に言えばいいってもんでもない、と同じです。
分からないなりに手探りして、手探りを続けている状態が一番よいのではないでしょうか。全部分かってしまうことを避けるくらいがちょうどいい、と思いますね。

そしてそして、12年前に、なぜタイトルを「まぁるい虹」としたかが、やっと分かりかけてきました。いつも「あとピン」なんです、ワタシってニンゲンは。
まぁるい虹が68回目で、ついに大団円を描けるよう、今はひたすらそれに向かって進みます。

最終回まで生きていてね、トーマ(いや、全然元氣なんすけど)。

さぁ、今日もご機嫌元氣に参りましょう。
ありがとうございました。



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