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2/6 内田樹『死と身体』第1章「奥義の伝授」から師弟関係を考える
おはようございます。
今朝も粉雪が舞って、体感温度-7℃、さぶいです。
先日、ちょっと触れた師弟関係の話を書いておこうと思います。
内田先生の話は、中国の「張良と黄石公」という謎に満ちた話から始まります。
張良は 黄石公という兵法の達人に弟子入りする。師弟関係を結んだけれども、先生は別に何も教えてくれない。張良が少しイライラしてきて、「この人は一体何を考えているのか」と思い始めた頃、ある日道端でばったり馬に乗った先生に出会う。 先生は ポロリと左の足の靴を落とす。そして張良に向かって「拾って履かせよ」という。張良はちょっとむっとするが、とりあえずそれを拾って履かせると、先生はそのまま行ってしまう。
また何日かすると、再び 馬に乗った先生に出会う。すると今度は左右両方の靴をポロポロと落とす。また「拾って履かせよ」と言う。 張良はますますムッとするが、我慢して靴を拾って履かせた瞬間に、長年の疑問が解けて 、兵法の奥義が伝授される。靴を履かせた瞬間に奥義の伝授が終わってしまった。
わけ分かんない話ですよね~。
内田先生の解釈を読む前に(実は数年前に読んだが例によって全く覚えておらず)ジブンでもしばし考えてみたけれど、「学ぶときは素直であれ」みたいなことかな?程度のことしか思い浮かばず。
奥義というのは実定的な情報ではなく、「 情報を伝える仕方」であり、「人と接する時のマナー」ではないか。
凡人だったら先生のメッセージは多分伝わらない。靴を履かせても「この先生はボケ老人だな。だめだこりゃ」で終わってしまう。しかし張良はそうではなく、 靴を履かせた瞬間にわかった 。
1回目靴が片方落ちる、2回目靴が両方落ちる。 1回だけだったら張良も 単なる老人の失策だと思うかもしれない。しかし2回落とすとなると、張良も考える。
確かにこの前も同じ状況で、先生は靴を落とした。今回も落とした。 前回は左の靴、 今回は両方の靴。
「これは一体どういう暗号 なんだろう?」張良はそんな風に考え始めた。
「先生は自分がそのルールを知らないゲームをしているのではないか」と思ってしまった。「 一体どんなルールで このゲームは進んでいるのか? このゲームを通じて先生は私に何を言おうとしているのか?」
という風に張良は問いを立てたはず。
そして、そういう風な問いを立てた時に、人間はそれとは知らず 弟子になる。
自分の目の前にいる人が「自分にはルールの分からないゲーム」をしている。自分には輪郭が見えない叡智を蔵している。そういうふうな構図で人間関係をとらえること、それが師弟関係の構造である。
▲これが師弟関係のまとめですね。
次はなぜワタシがこれを読んで、キャットシッター養成講座や猫セミナーに参加した一部の人に感じた違和感が氷解したかという話です。
まず違和感を感じた人たちにザッと共通したことがある。
口は達者で言葉遣いも丁寧ながら、「絶対負けない」「私の方が~」といった意識が見える(ちゃんと見えるんですよ)。「○○したほうがいいですよ」と言ってくる。
これらに対して、「自分が先生の器ではないから仕方ないか」とも思い、同時に何とも言えない腹立たしさを感じつつ、なるべく表面に出さないよう(ハッキリ出てたと思うが)かなり我慢して付き合っていたんですね。
まぁ、徐々に我慢をしなくなったけれど、30年間一定数こうゆうタイプはいたもんです。
「南里センセイ」と寄って来る人たちに対して、「こいつ等に先生と呼ばれたくないわ」と思いながら、「ドウドウ」とジブンをなだめつつ、オノレの力不足や器の小ささに辟易しつつ……。
ただ、そういう人たちのことはいずれ忘れるんですが、オノレが先生と呼ばれるに値しない人間であるということからは逃げられない。これは結構きつかった。
そういった諸々が、内田説によって、まず「なんだ、そもそも師弟関係にすらなっていなかったんじゃん」と分かった。
アヴちゃん先生の『0年0組』に「ビッグマウス」という生徒がいて、彼は優秀は優秀でも文字通り大口をたたく。アヴちゃん先生に対して「俺を落としたことを後悔させてやる」なんて口をきく。
見る人に拠っては、それは自分の小ささを必死に隠している態度と見えるんですが、彼の周囲に及ばす悪影響を見逃すわけにはいかない。なのでアヴちゃん先生が彼を脱落させたのは全体のバランスから見て至極当然のことでした。
こうした決断に相当の氣力が要りかなり消耗することを、ワタシごときでも十分知っています。ビッグマウスはどこにでもいますからね。
張良が奥義を受け取れたのは、「問いを立てられた」からです。
自分がまだ知らないものに対する畏敬の念があったということ。
生意氣、知ったかぶり、負けない氣、小賢しい態度は当の本人はいいつもりでも、結局のところ何も得ることはできない、そう思います。
ワタシが先生の器であるか否かが問題はなく、ワタシに学ぼうとしてきたら学ぶ姿勢をとるべきだった。コミュニケーションは双方向なんです。
「啐啄同機(さいたくどうき)」という言葉もあります。
意味は卵が孵化するときは、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、また親鳥も外からその殻を破ろうとする、そのタイミングがピタッと一致するからこそ、ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることができる、という禅語。
せっかちな親鳥がまだ卵がかえる時期じゃないのに、外側からいくらつついても雛は孵らない。この逆も然り。
人間関係において、こうした関係を作れるのは実はかなり稀なんじゃないかと思います。負け惜しみじゃなく、ね。
養成講座においてキャットシッティングシステムはきちんと伝わっていると自負していますが、奥義というほどではないにしろそもそもキャットシッティングの根っこになにがあるかということを理解している人は正直ごく数人だと思います。それでいい。
とにかく内田説によって、ワタシは長年の自責の念から解放されました。
つくづく読むタイミングが大事ですね。
それから、生きている限り學び続ける身として改めて「いくつになっても素直であること」を肝に銘じました。
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極寒のこの時期は猫の発情期。
ヤムヤムは去勢していますが、この時期ソワソワ、ソワソワ、まったく落ち着きません。
たいていタオちゃんが標的になっているのですが、なんと夕べはトーマにまでマウントしていました。
それは~止めてあげて、トーマはけっこうなおじぃちゃんなんすから。ヤムヤムはズズとちぃちぃのDNAを受け継いじゃったのね。
では木曜日もご機嫌元氣に参りましょう。