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他人と分かり合えるか

こんにちは!
今回は、他人と分かり合えるか、というテーマで色々喋ってていきますので、よろしければ最後までお付き合いいただければ幸いです🙌

さて、まず他人と分かり合えるかについてですが。私個人としましては、分かり合えない、というのが結論だと思っています。

大体、分かり合えることを前提としてコミュニケーションを取るから腹が立ったり、悲しくなったりするんです。

脳みそが違うんですから、相手の気持ちなんて一つも分かりません。

「何で分かってくれないの!!」と涙したその口で、「言ってくれなきゃ分かんない!」

「自分でか考えてやれ!」と怒鳴ったその口で、「勝手に仕事を進めるな!」

……実に非合理的、整合性の無いことを言うな!😬

という、強い気持ちで日々生きております。

まあ、その非合理的なところが人間の持ち味ですからね。仕方ないんでしょうけど……。

さて、私の考えは一旦さておいて。2つほどお話を紹介していこうかなと思います🤗

サピア=ウォーフ仮説

サピア=ウォーフ仮説を皆様ご存じでしょうか?

言語相対性仮説とも呼ばれるように、言語に関する仮説です。

強い仮説と弱い仮説とがあり、今回は強い仮説についてのみお話していきます。

言語決定論とも言われ、言語の形式が、思考の習性を提供する。というもの。

すごーく、ざっくり話しているので、気になった方は調べてみてください🔎

同じ言葉を話す人同士、思考や性格が近いことってありますよね?

たとえば、日本人は真面目だ、とか、スペイン人は陽気だとか。

もちろん全ての日本人が真面目なわけじゃありませんし、全てのスペイン人が陽気なわけじゃありません。

ただ、同じ言葉を共有しているということは、同じ概念を共有している、と言えなくもないとは思いませんか?

たとえば、好きな人に振られた。そんな時、私たちは「失恋した」と言います。

分解して「恋」を「失う」

さて、欧米はどうでしょう、英語では"broken heart"。フランス語では"Coeur cassé"。

同じように分解して「心」が「壊れる」

なんとなく、日本語は大人しく、欧米はダイナミックな表現な感じがしませんか?

同じように、日本人は大人しく、欧米の人たちはダイナミックなイメージがありますよね?

このサピア=ウォーフの仮説。言語が違う人同士文化が違うから分かり合えない!と言ってるように思われて批判されがちなようですが、実際はそこまで言い切っては無いようです。

言葉は、文化に沿って生み出される。と考えれば分かり合い辛いくらいは言えるかなとは思いますが。

例えば、直訳できない、と言われている言葉が世の中には存在します。

日本語であれば、「もったいない」が有名ですね。他国でもそのまま「もったいない」と使われています。

何一つ無駄にしない日本の文化が生んだ言葉です。

さて、この「もったいない」という言葉を全く知らない人に意味を説明し、理解してもらうことができるでしょうか?

仮に、今目の前でいらないものはとにかく捨てたい人VSとにかくもったいない精神の人による、ズボンを処分したいという場面を想像してください、あなたはとにかくもったいない精神の人です。

👩「捨てるの?」

🧑「汚れちゃったから捨てるんだ」

👩「もったいないじゃない」

🧑「もったいないって何?どうしてごみ捨てなんか止めるの?」

さて、あなたなら何て言いますか?

とにかくもったいない精神なので、ズボンをかばんにしたり、汚れた所にワッペンを貼るかもしれませんし、部屋着なら汚れててもいいじゃないと言うかもしれません。

でも逆側で考えてみてください。

まあ、私はどちらかと言えば何でも捨てたい精神なので、こう思います。

「別に捨てたらいいよね?」

これが、言葉に比例した考え方の壁とは言えないでしょうか?

さて、もう一つご紹介しましょう。

クオリア

クオリア、皆様ご存じでしょうか?

簡単に言うと、私が普段感じているけど、他人には客観的に感じられない情報ってありますよね?

わが身をつねって人の痛みを知れ、なんて言葉があります。

自分をつねらなきゃ他人の痛みなんて分からないんですよ。

ことわざにそんなこと言うもんじゃないですけど、つねった痛みが、その人と同じ痛みかどうかも分からないわけです。

同じように、どれくらい辛い、とか甘いってうまく人に伝わらないですよね?

辛いのが苦手な人の「辛い!」と辛いのが平気な人の「辛い!」はもちろん違います。

私はブラックコーヒーが大好きなんですが、甘党の友人はそれを飲んで苦くて飲めない!って言うんですよ。

事実、そのコーヒーが甘いかではなく、個人個人が甘いと感じるかどうか。

自分と他人の間の、高い感覚の壁。

自分と相手の距離がどれほど近かろうと、まったく同じ感覚を持っているとはいえず、また、それを証明する術もないのです。

ちなみに、クオリアに関しては否定派の意見もあり、感覚は全て脳の物理現象だ!とする人たちもいます。それに対して考え出されたのが、かの有名な哲学的ゾンビなんですが、気になる方はぜひ調べてみてください、面白いですよ📔

私がクオリアという言葉に初めて出会ったのは、高校生の時だったんですが。今まで当然みんな同じものを見て、同じことを感じていると思っていたんです。

それが、ある日突然みんな同じものを見てるって科学的に証明できてないんだよって言われちゃうわけですよ。

じゃあ、この世の中どこまで信じられるのか考えだし、方法的懐疑を知り、隣にいる友人の存在さえ疑わしくなるんですが。そこについてはまた別の記事で紹介したいと思います。

他人と自分の間には埋められない溝があるという否定的な話ばかりしてきましたが、だからと言って私は人間関係を放棄しているわけではありませんし、放棄したいとは思いません。

冒頭でもお話しましたが、分かり合えると思うから分かってもらえなくて傷ついたり、怒ったりするわけです。

私達と誰かの間には必ずしも、高かれ低かれ壁があります。しかし、それを無理に超える必要が果たしてあるのでしょうか?

壁を挟みながらコミュニケーションを取り、関係を築き、それで時々壁の隙間から同じ景色が見れたなら。

個人的にはそれくらいが人と人とのちょうどいい距離感なのではないかと考えています。

さて!今回もお付き合いいただきありがとうございました!またいつか、夜の帳が下りる頃お会いしましょう、おやすみなさい🛌







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