「人生の学校」フォルケホイスコーレはどんな場所? 体験から定義を見つめなおす
デンマークの教育機関「フォルケホイスコーレ」に来てから、約3ヶ月が過ぎた。
ここは穏やかで優しくて、ときどきカオス。不思議な時間が流れるフォルケホイスコーレの日々を通じて、自分の内側はじわじわとゆっくり、確実に変化が起きているように感じる。
だが「フォルケホイスコーレはどんな場所か」と問われるといまだに言葉に詰まる。
フォルケホイスコーレを説明する言葉は既にいくつかある。Googleで「フォルケホイスコーレ」を検索してみると、こんな具合のキーワードが目につく。
- 人生の学校
- 幸せを知る学校
- 自分を知る学校
- 大人のための学校
- 民主主義を学ぶ学校
- 自分の好きなことを知る学校
どれもその通りだと思う一方、以前からどこか物足りなく感じていた。フォルケホイスコーレの体験は、個々人でまったく異なる。だから特定の言葉を与えると、なんだか陳腐に聞こえてしまうのだ。言葉に落とし込む行為は、周りのコンテクストを削ることでもあるから仕方がないのだけれど。
それでも今この瞬間体験しているフォルケホイスコーレを、限界のギリギリまで言葉のフレームに当てはめてみたい。そんな気持ちがむくむくと湧いてきた。でないとフォルケホイスコーレの体験が自分の中でどんどん薄くなりいつしか消えてしまいそうで怖い、という気持ちもあった。
そんなことを考えているタイミングで、ある友人との出会いがあった。現在デンマークの会社で働いてる彼女は、過去2つのフォルケホイスコーレを体験していて、フォルケホイスコーレを通して得た共通の感覚を持ち合わせていた。
掴みどころのない幸福感、心の奥底につくられた固い自信、安心感。一方でときどき湧き出る不安やモヤモヤ感。これらの感覚を、どのように表現すれば伝えることができるのだろうか?
私たちは、フォルケホイスコーレを通して歩んできた日々を巻き戻す旅に出た。
キーワードは「空白」
早速私たちはフォルケホイスコーレで過ごした日々を辿った。まずはフォルケホイスコーレ生活で特に印象に残っている出来ごと(fact)を振り返り、時間軸に沿って並べていく。
2人は異なるフォルケホイスコーレに通っていたので個々の経験はバラバラであったが、その体験から導きだされるインサイトや感情は重なる部分があった。(詳細は長くなるので別の記事に譲る)
(ピンクの付箋がメタ化した要素)
私たちは喜怒哀楽4つの感情に分けてそれぞれの体験をメタ化させていった。このプロセスで私たちは気づく。嬉しい・楽しい感情を抱くときも、悲しい・怒りの感情を抱くときも、そこにはフォルケホイスコーレという場が許容する「空白」が存在していた。
フォルケホイスコーレは一定の授業やイベントがあるものの、それ以外の時間をどう使うかは完全に個人の自由。加えて成績やテストなどの評価も存在しないため、学校が強制的に与える「自分を試す場」がない。時間的な空白と、何にも追われる必要のないマインドの空白があるのだ。
フォルケホイスコーレの体験の核に「空白」があると仮定し、空白を軸に私たちのフォルケホイスコーレの体験をビジュアル化してみた。最終的に言葉に当てはめる前に抽象的なビジュアルに落とすことで、なるべく体験を包括できる言葉を探していく。
私たちにとって、フォルケホイスコーレとは?
上記のプロセスを経て、私たちは「フォルケホイスコーレとは何か」を4つの言葉まで昇華させた。
1. 選択力を洗練する場所
2. 自分で変化を起こせる場所
3. 友だち以上家族未満のコミュニティー
4. 考えることにフォーカスするためのセーフティーネット
それぞれ以下、解説していきたい。
1. 選択力を洗練する場
フォルケホイスコーレの生活にある空白の時間で、何をするか決めるのは私自身だ。フォルケホイスコーレにいる先生や生徒は、私が授業以外で何をしようと何をしまいと責めはしない。
だから私は、何かをすることも何もしないことも選べる。何もしない開放感を味わうこともできれば、何もしない罪悪感に駆られることもある。そんな空白の時間の中で選択した「何か」は、あなたにとって大事なこと、好きなことだったりするのだ。
(私なんかは週末にワークショップを設計しまうくらいには「学びや振り返りのプロセス設計」が好きだと改めて気づかされた。)
念押しだがフォルケホイスコーレに来れば選択力が上達する魔法の授業があるわけではない。「何をしてもいい自由な環境」の中で、私は何を選びとるのか、私自身が問うのだ。自分で自分を試すような、ある意味非常にシビアな場所だと思う。
2. 自分で変化を起こせる場
フォルケホイスコーレでは、先生と生徒との間に上下関係はない。お互いにリスペクトを払いながら、とことん平等な関係を築く。お互いが対等な大人であり、教え合う関係であることを前提としている。こう書くと聞こえはいいが、授業を教える側(先生)だけでなく授業を受ける側の私たち(生徒)も授業を発展させる責任があることを意味する。授業も学校の体制も、全員でつくり、全員で変えていく。
ありがたいことに、学校生活をより良くするために生徒から働きかければほとんどのケースで学校は何かしら動いてくれる。ある時、私の学校の生徒から「インターナショナルの学校なのに、アジア文化を学ぶクラスが少ないんじゃないか?」と意見が出た。その後の学校の対応は見事で、数週間後にはアジアの文化を教えられる教員の募集を早速facebookに掲載していた。スタートアップばりの対応の早さだ。
自らが発した発言、起こした行動で変化が起こせる──この経験を通して自己効力感、つまり自分の行動で、自分の周りの世界を変えられる自信が芽生えることになる。この辺りが「民主主義の学校」と言われる理由かもしれない。
3. 友だち以上家族未満のコミュニティー
個人的にフォルケホイスコーレに滞在するもっとも大きな価値の1つは共同生活にあり、と感じている。フォルケホイスコーレは学校内に個人の部屋(相部屋か一人部屋のどちらか)が付いているので、授業・食事・睡眠すべて校内で完結し、生徒や先生たちと空間を共有しながら学びと生活を繰り返していく。
これまで家族と一緒に暮らしたり、寮生活も体験したりしたけれど、そのどれとも異なる感覚なのだ。一人でいても24時間誰かと一緒にいる感覚。これが不思議と、本当に心地よい。一人の時間を確保するために輪から抜けても誰も気に留めないし、また輪に戻ればいつでも歓迎してくれる。ゆるやかに結ばれたこのコミュニティーに名前をつけるのは難しいけれど、今のところ「家族未満友だち以上」の関係性がしっくりきている。
4. 考えることにフォーカスできるセーフティネット
勉強する、選択力を洗練するために自分と向き合う、変化を起こしていく。これらをおこなうには体力と気力が必要だ。過去の生活を振り返ってみると、仕事や生活の忙しさを言い訳にすべて後回しにしてきたことばかりだ。
フォルケホイスコーレは生活の基盤となる「食べる・寝る」場所を提供してくれる。美味しい食事があって、安心して寝られる場所がある。滞在の間は健康やお金の心配はなしに、目の前のことに集中できる。この環境があってこそ、自分の興味を深ぼったり、つい後回しにしてしまう大事なことに向き合ったりすることができるのだ。これはデンマークの社会保障の考え方が色濃く反映されているのかもしれない。
※ フォルケホイスコーレのデンマーク内での位置付けはプライベートスクールであるため、約7割が政府負担で残りは生徒負担。そのためフォルケホイスコーレは有料の学校機関であり、デンマーク人ですらお金を払わなければならない。
図にまとめるとこんな具合に、フォルケホイスコーレのシステムがつくる安心感が下支えとなって、新たな挑戦に踏み出したり、思考を深めたりすることができるのではないかと考える。
空白に身を預け、自ら動き出せるか?
これがフォルケホイスコーレ生活を楽しめるかどうか、一つの決め手になるかもしれない。ただ、上記は少々ストイック傾向のある2人が導きだした今の納得解なので、全員に当てはまるわけではないだろう。
ここまで書いておいてなんだが、フォルケホイスコーレに定義や答えはなくていいと思う。一人ひとり共通する感覚もあれば、まったく違う感覚もある。だから面白い。
面白くてやめられないから、これからもフォルケホイスコーレを体験した他の人々との対話を続け、その都度思考をアップデートしていけたらと思う。