『人の気持ちを理解出来る人』こそ他人に興味が無い話

 ふとこんな事に気がついた。
 周りから『人の気持ちが分かる人』と言われる人こそ、他人に興味がなく、他人がどんな気持ちなど理解しようともしない、そんな人達だと。
 人の気持ちが分かるとは、例えば他人に激しく同情のできる人だろうか。

 まず、私もこの同情の激しい人だ。
 そして同時に、他人には興味が無い人でもある。そのことを思い出して私は もちろんこれに疑問を持たずにはいられなかった。
 私は人に興味がないのに、どうして人への同情は激しいのだろうと。

 ここで一つ。
  人に興味の無い私は反対に自分への興味は充分にある。
 自分はどうしてこんな行動をして、こんな言葉を言ったのだろうとか。どうして無意識にそんな考えが浮かんだのだろうとか。
 そういう自分の中の曖昧な所を、よくこのブログでも考えたりする。

 そしてもう一つ。人に興味が無いというのにも理由がある。
 それは多分、他人は到底理解し得ない ということを人よりよく意識しているからだと思う。
 例えば 人に滅多に相談をしない。
 というのは 自分でさえ理解できないことを他人に理解出来るはずがない、そんな事に意味は無い、とそう信じているからでは無いだろうか。

 以上 私が人に興味が無いということを述べた上で、なら私がどのように人に同情するかについてだ。

 他人は理解することができないからこそ、自分の中で生まれた考えを、そのまま他人に落とし込もうとするのだと。

 とても分かりにくい文章になってしまったのは申しわけない。
 さっき述べたように自分の事についてはよく考える。その中で何となく答えに近いものを見つけて、自分の中で納得しようとするまでがセットなのだ。

 だから、その自分の中で見つけたあくまで自分のために作られたその解答を、理解のできない他人にまで押し込もうとする。
 それは言い換えれば、他人は他人で自分とは違った感情を持っていたかもしれない。
 という可能性までも無視して、もし自分なら という自分の答えで満足してしまうのだ。

 他人の気持ちは理解できないのならそんな事を考えなくても、自分のことようにだけ考えればそれでいいやと、私はこの行為がただ投げやりな行為にしか思えなかった。

 私がやっていた同情なんて、その人自身の気持ちを理解しようといていたのではなくて、それを逆に全無視して私個人の気持ちに寄り添っていただけではないかと、そんな事に気づいたのだ。

 誰よりも大切な自己の感情を、興味の欠けらも無い他人にはそれをそのまま押し通す。
 同情とか、人の気持ちを理解するだなんて、そんな行為が全く自己中なものにしか聞こえないように思えた。

 本当に人の気持ちを理解しようとするのなら、自分と他人とを区別して考えられることなのではないだろうか。

 でも私のように同情することが決して悪いことでもないんだろうな。
人の優しさは、人の数ほど多様に溢れているんだから。


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