他者への思いやりを考える

 今日の朝ふと考えたことで、私たちに元から備わっている才能や性格なんてものは本当はほんの小さなものもので、最初はきっとそんなものの形はまだまだ不確定だろう。なら、私たちの人格、そして私たちが歩んでいる人生のほとんどが影響されてできたものだ。
 極端にいえば、私がこんな人になったのも、私を取り巻く環境や 他者によるものだ。

 自分はなんでこんなこともできないのだろう、どうして他に万と替えのきく人間がいるなかで、私は生まれてしまったのだろうと、自分の存在に無意味に疑問を持ってしまうことがあった。しかしその質問に答えるべきは他者で、私では無い。私には答えられないのだ。

 自由な世界に求められるのは自分で選択すること。その選択に求められるのは自分の責任だ。誰に投げつけることもできない自分の責任の先に待つものはなんだろうか。死だ。そうして自らの死を異常なまでに望むのだ。

 だが、この世のほとんどに自分の責任なんてものは無い。全てが他者によるもので、他者の責任もまた、他者の責任となる。
 少し投げやりの発言に聞こえただろうか。

 そうならばと、全部が自分のせいでないなら何をやってもいいか。もちろん違う。全てが他者の責任なら他者の責任に自分も含まれるのは当然だ。なら、他者の責任に対して、何ができるだろうか。

 こう考えた時、あるひとつの疑問の答えも見えそうな気がした。
 よくある話だ、人の事となるといつもより張り切っていられるのに、心の底から応援することが出来るのに、自分のこととなるとつい適当になってしまったり、どうでも良くなったり。

 全ての責任が他者によるからこそ、無意識に他人に対して尽くそうと感じ、他人の責任を自分で解決しようと思えるのだ。

 あなた一人に降りかかる責任なんて、違う方向から見ればそんなものは存在しなくて、あなた一人で抱え込んだところで意味は無いということ。

 とはいえ、他人に助けを求めることに難しさを感じることは多々ある。ならば今はまず、私から他人を思いやろう、助けようと。そんな意志を持ってみようと思う。

 あなたは他者にどんな時に尽くそうと思う?

 


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