水運の代替としての鉄道

ローカル線の中には人の住まない渓谷沿いのルートを取ったものもあり、当初は単に貨物輸送のために勾配の少ないルートを選んだのかなと思っていたが、それらの歴史を調べてみたら、水運を代替する目的で建設されたものがいくつも見つかった。この手の分野は既に歴史家によって調べ尽くされているだろうが、素人なりにぽつぽつ調べてみただけでもなかなか興味深い。すぐに見つかっただけでも以下のようなものがあるが、もちろんそれだけに留まらないだろう。

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1.磐越西線喜多方新津間

阿賀野川は会津の物資を越後に運び、新潟で北前船に積み替えるための水運で活用されてきたようである。明治になってから阿賀野川の水運を代替する鉄道が岩越線として計画され、阿賀野川沿いに建設された。開業当初の新潟側のターミナルは水運との接続を重視したため、繁華街から離れていたようである。山都から津川にかけては阿賀野川のルートに合わせて遠回りになっており、かつ狭い渓谷地帯を通っていることから沿線人口が少ない。

2.三江線

江の川の水運を代替する目的で建設された。江津三次間の江の川に沿って建設されたが、江の川は蛇行しており都市間連絡鉄道としては遠回りなため、そのような目的では利用されず、廃止になってしまった。

三江線は建設が遅かったため、三次口羽間の三江南線と江津浜原間の三江北線との別れた状態が続き、全通したのは国鉄末期に近い頃だった。その頃には水運を代替するどころか鉄道貨物が衰退期に入っていたので、陰陽連絡線という目的で全通させたが、そんな遠回りな路線が都市間連絡鉄道として活用されることはなく、優等列車も設定されず、乗客が減り続け、ついに廃止になった。

3.新潟交通白山前燕間

もともと信濃川の下流は水量が豊富なため長らく蒸気船による水運が盛んだったようだが、治水対策のため大河津分水路が完成してから信濃川本流の水量が減少して水運が不可能になったことから、その代替として信濃川沿いに鉄道が建設されたとのこと。

4.高山本線高山富山間

もともと宮川と神通川の水運によって飛騨から富山や岩瀬へ物資が運搬されており、岩瀬で北前船に積み替えられていた。当初飛越線として建設された高山富山間の線路は宮川と神通川に沿っている。猪谷から飛騨古川までは国道41号が峠越えのルートなのに対し、飛越線は宮川の渓谷沿いのルートで沿線人口が少ない。

そんな宮川の渓谷でも国道360号のバイパス建設が進んでいる。まだ未改良区間が残っているためトラックは線形の良い国道41号を通るが、全区間で道路改良が完了すれば、高低差の少ない線形によって国道41号経由のトラックが転移してくるかもしれない。

5. 肥薩線八代人吉間

ここは球磨川に沿って建設された。球磨川は人吉盆地から八代への水運に活用されていたが、肥薩線開業によって鉄道への代替が進み水運が衰退したようである。

肥薩線自体はもともと鹿児島線として八代から鹿児島への鉄道として建設されたものである。後に出水川内経由のルートが開通した際にそちらが鹿児島本線となり、旧線は肥薩線となった。沿岸部のルートにはトンネルが多く、肥薩線建設当時の土木技術では難しかったのかもしれないが、肥薩線のルートにだってトンネルはある。となると球磨川沿いなら水運を代替できるという狙いもあったのではないか。内陸水運が盛んだった時代には人吉のように大きな川に面した町の方が発達していただろうし。

6.加古川線、三木線

加古川線は加古川の水運を代替する目的で、支線の三木線は加古川の支流の美嚢川の水運を代替する目的で建設された。水運との接続重視で集落から離れた場所に建設されたため、地域輸送は低調だった由。

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ではなぜ水運から鉄道に代替されたかというと、まず思い当たるのは輸送力である。日本の河川は季節を通じた水量の変動が大きく、渇水期に航行可能な船の喫水は限られる。となると大きな船を浮かべるのは難しい。それに対して鉄道は貨車を何両も連ねることができるので輸送力が大きい。

日本の河川は比較的流れが急な方なので、川を下るときには無動力で下ることができるが、帰りに川を上る際には人力で棹を突きながら遡上することになる。内陸の物資を沿岸部に運ぶことが目的なら、帰りは積荷が空で軽いが、それでも人力で遡上できる大きさの船ではさほど輸送力がない。それに対して鉄道なら沿岸から内陸への物資輸送もできる。

鉄道の方が船よりも速度が高い。あまり急流だと安全に物資を輸送できないので、内陸水運に適した河川となると下りであってもさほど速度が出ないし、上りであればなおさらである。蒸気機関車牽引の汽車は速度が低いとはいっても、40km/hで走ることができれば水運に対して競争力がある。

内陸水運が衰退した河川では、代わりに水力発電所が建設されるようになった。もっとも、水運に適した流れの緩やかな区間では高低差が乏しいことから、信濃川水力発電所のように数十kmも水路を引き込んでいるものもある。水路式の水力発電所であっても取水堰が必要なので、丸太を筏で流していた頃には不可能だった。

ではなぜ鉄道が可能になったかといえば、明治になって蒸気機関と石炭を利用できるようになったためである。また製鉄所がなければ鉄のレールを作ることもできないが、製鉄のためには石炭が必要である。

そのようにして鉄道が利用可能になると、道路インフラの脆弱だった当時の日本では鉄道こそが最も効率的な陸上輸送機関となり、水運代替目的以外でも各地で鉄道が建設された。

単線鉄道が建設されれば、列車交換のための駅や信号場が必要になる。客扱いや貨物扱いがあれば駅だし、なければ信号場である。客扱いのみする駅は旅客駅、貨物扱いのみする駅は貨物駅、客扱いと貨物扱いの両方をする駅は一般駅である。昔のローカル線には客車と貨車の両方を連結していた混合列車も多数走っていた。かつてはローカル線の駅であっても貨物扱い用の線路やホームがあり、日通の倉庫が隣接していた。日本通運という会社はもともと鉄道貨物の荷扱や末端部のトラック輸送を行っていた各地の通運会社を戦時に統合してできた会社である。荷物の積み下ろしのためには駅が必要で、駅があれば駅に停車する旅客列車も設定されるようになる。道路インフラが脆弱だった時代にはバスは時間がかかりすぎてまともな交通機関とはいえず、鉄道のみが実用的な交通機関だった。

戦後になって道路インフラが整備されるようになると鉄道貨物よりもトラックの方が好まれるようになり、ローカル線での貨物輸送は無くなり、おまけで行っていたはずの地域内の旅客列車だけが残った。そしていつしかそれがローカル線の存在意義であるかのように錯覚されるようになった。

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