世界樹の魔法使い 2章:争う尖塔の学生たち ⑥
***
授業を終えて夕刻に至る頃になると、生徒たちは天刺す尖塔から寮に戻り、教職員たちも事務的な仕事や自身の研究のために室内に籠もるようになる。生徒の鍛錬に付き合う教員もいるが、彼らが居るのは地下やグラウンドといった離れたところであるため、尖塔は必然的に、ひっそりとした空気を漂わせていた。
空が夜の様相を呈していても、生徒が帰るときの賑やかさがあれば、夕刻のような雰囲気をかもしだす。
だが人の姿が見えないと、真夜中のような静寂だけが、尖塔の中には満ちていた。
その静寂に溶け込むように、チュイは特別教育部の前にある広場で項垂れていた。
肺一杯に溜められた重苦しい溜息がドロドロと吐き出される。
こんな彼女の姿は珍しかった。
「……なんて顔してんのよ。今日一日で諦めるようなタマじゃないでしょ?」
隣から八重子が声をかけると、バルバロも持ち味の笑顔を見せる。
「ちゅい、かなしいかお、よくない」
「うん、そなんだけどね……」
チュイが顔を上げて特別教育部の頂上に目をやると、午後の五時を示す青い炎が五本、ゆらゆらと燃えていた。
彼女は朝から今まで、必死にジョイナーの情報を得ようとしたが、何一つとして彼に関する情報を手にしてはいなかった。
そう、ただの一つでさえ。
今から頑張ったとしても、教職員が捕まるような時間ではない。
八重子の言うように、チュイは今日だけで諦めるつもりはなかったが、胸の中にはモヤモヤとした気分の悪いものが渦を巻いていた。
それは、情報が手に入らなかったからではない。
ジョイナーの事を調べだした途端、教職員に不気味な空気が広がったからだ。
「バーー!」
ふんと、鼻から溜め息を漏らすチュイを見て、とうとうバルバロがしびれを切らした。
「チュイ! だいじょうぶ!」
バルバロはチュイを軽々と抱き上げると、自分の肩の上にまたがせて、陽気に何度も飛び跳ねて笑う。
「ちゅい、がんばった。おれ、がんばった。やえこも、みんながんばった。きっと、せんせい、たすかる。きにするな」
「わわっ、ちょっとバルバロ、こわいよ!」
陽気に気遣うバルバロの様子がおかしくて、八重子は諦めたような溜め息をついた。
そしてチュイは、肩の上で揺らされながら、バルバロの頭に抱きついて笑った。
「あーはははっ! ねぇ分かったから、分かったから止めてぇ」
ニコニコと笑いながらバルバロが止まると、チュイはほっと一息ついた。
「ごめんね、心配させて」
チュイはゆっくりと下ろされると言葉を続ける。
「確かに落ち込んでたけどさ、なんだか先生のことが分からなかったことよりも、他の人たちの反応が気になっちゃって……」
チュイは言葉を区切ると、腑に落ちないといった様子で続ける。
「ねぇ、あの口の硬さは普通じゃなかったよね?」
言葉と視線をもって八重子に同意を求めると、見られた彼女も表情を曇らせて俯く。そして、今日であった教員たちの反応を思い返した。
「――そうね、なんだか気分が悪かったわね」
八重子が近場のベンチに腰を下ろす。チュイもそれにならって腰を落ち着けと、バルバロはベンチを壊さないように、地面であぐらをかいた。
そして、一日を振り返る。
何も得ることができなかった、今日一日を。
授業の内容が総復習になり、ジョイナーが朝から教室に居ないのは、チュイとフレイソルにとって好都合だった。本人が居ないところで動くことができて、時間という制約にも縛られることもない。
チュイはフレイソルが羽生とツォウを連れて教室を出て行く姿を見ると、早速ターゲットとなる教職員を探し始めた。
他の学年が授業をしていても構うことはなく、校舎を縦横無尽に歩き回りながら、教職員を見つける度に、見事な営業スマイルとかしこまった言葉使いで迫った。
「すいません先生、お忙しいとこ恐縮なんですが、お時間よろしいでしょうか?」
と、まぁこんな具合に。
だが、世間の狭い尖塔では、一年目の新任でない限り、互いに知っている仲である。普段見せることがないチュイの阿った笑みと口調に、教員や職員は生ゴミの匂いを嗅いだような嫌な顔をした。
「おいおいおい、なんだよ気持ち悪いな」
「まってくれ、僕は戦闘系の魔法は使えないから手合わせは出来ないよ」
「ごめんね、私ちょうど給料前で、貸せるお金はないの」
と、もはや内容を聞く前に勘ぐられたあげく、勝手に結論を出されて拒否される始末。
それでも、今までとは違うチュイたちの言葉遣いがツボにはまり、警戒しながらも話を聞いてくれる者が居た。
だが、ここからがひとたび話しだすと、妙な空気になった。
思い返しても、チュイの胸の中には、鉛が沈み込んだような気分の悪さが広がる。
「実は私、ジョイナー先生の情報を集めてるんです。先生の何か凄い話とか知らないですか? 武勇伝みたいなのとか。人として良かったところとか!」
尖塔の中は、普段から音の反響が大きくて、少し冷たさを感じる。それが、この言葉で一線を越えて、凍えるように寒くなった。
そのスイッチこそがジョイナーだ。
チュイがジョイナーに関する質問をした瞬間、誰の表情も決まって凍り付いた。
そして、このどちらかの言葉が送られてくるのだ。
「良く知らないな、他をあたった方が良いかもしれない」と、固くなった表情に笑みを貼り付けて話題を終わらせるか、「どうして、そんなことを調べる必要が?」と、固い表情のまま詮索される。
ジョイナーの情報を口にすると、相手の言葉が、相手の表情が、ジョイナーという存在をぼかすように、ベールで包もうとするのが分かる。それはまるで、ジョイナーの事を語ってはならないように、見えない糸で口を強く縫い付けられているようだった。
それだけ言っても過言ではない。
「どうして、そんなことを調べているんだ?」
こうした相手の問いに対して、チュイたちは嘘一つ無く答える。
フレイソルとの諍いの話と、校長であるケンブリーの提案について。
すると、次にはこう返ってくる。
「校長も人が悪い」、「その勝負はきまらないな……」と。
決まって困った顔をする彼らに、チュイたちは必要以上に追求できなかった。
それに加え、彼らの言葉の中には、他の教職員もジョイナーの事に関しては語らないという共通した信念のようなものが見えた。
最初こそ「そんなこと言わずに、一つだけでも!」と、陽気にアピールしてみたが、聞かれた人は努めて冷静に、「言えない」という言葉を繰り返す。
一人、二人、三人……。
たずねる人を増やす度に、質問するチュイたちの気分は悪くなり、それに比例して、ジョイナーという不良教師が、中身のない輪郭だけの存在なってゆく。
最後に残ったのは、何も分からないジョイナーの黒い影だけだった。
広場のベンチで今日のことを振り返ると、チュイは八重子を見た。頭の回る彼女なら、何か自分に新しい提案をくれるかもしれないという淡い期待があったからだ。
だが、彼女も口を噤んだままで、静かに吹く風の音だけが聞こえてくるだけだった。
と、その時、目の前に大きな暗い影がストッと落ちてきた。
「わっ、なに!?」
呆然としていたチュイが不意を突かれて目を丸くする。
すると目の前に落ちた影がすっと大きく伸びる。それは男の体だった。
戦うためだけに引き締められたような肉体に、ボディーラインにピッチリと合った服。刃のように鋭い目は、なぜか優しげで、口に付けたマスクをなびかせている。
「おっ、チチチのチュイちゃんじゃないですか」
それは、ワンだった。
彼のさわやかな笑みを見ると、チュイは相手を理解して立ち上がった。
「――あっ、ワンさん、こんにちは」
頭を下げると、八重子とバルバロが続く。
「こんにちは、ちょっと失礼しますぞ?」
ワンはチュイと八重子が座っていたベンチの裏を覗き込むと、小さな宝石を取り出す。丁度、監視機構の手入れのために、仕掛けた宝石をチェックしているところだった。
彼は改めて宝石に魔力を込めてから胸にしまうと、困った様子を見せた。
「何だか皆さん元気がないですね。私でよければ話を聞きましょうか? 私はこれでも四十ですからね。どこぞの不良教師よりも人生相談には乗れるかもしれませんよ?」
マスクの奥で、口の両端をクッとつり上げて笑みを作るワン。
八重子は軽い調子で人の事情に踏み込む手合いは、どうも苦手だった。
「別に何も……」
それを聞いてワンは鼻で息をつく。
チュイはふと、ワンのことで一つ思い出すことがあった。よくよく考えてみれば、彼もジョイナーと一緒に三年前に入ってきた人間だ。
「あの……、ワンさん」
チュイは躊躇いながら聞こうとしたが、ワンに手で制止されて言葉を飲み込んだ。
それを見た八重子が目を見張り、バルバロもキョトンとワンを見つめた。
それでもワンは、何食わぬ顔で「まぁまぁ」と言った。
「ジョイナー殿について、探りを入れているんでしょう」
核心を突く一言に、今後はチュイの目が丸くなった。
「私は監視官ですから何でもお見通しですぞ? まぁ、他の教職員の方々は知らぬ存ぜぬだったり、場の空気を濁しているかもしれませんが、私は正直に言っておきます。もう分かっているとは思いますが、嗅ぎ回らない方が良いですぞ……」
八重子が察して口を開いた。
「監視機構ですね?」
「えぇ、学内での不穏な動きはいつでも確認してます。フレイソル君の動きもね」
嗅ぎ回らない方が良いと言われても、チュイは引き返すつもりなどなかった。
彼女はジョイナーが良い人間で、これから共に歩む相手だと思っている。彼女の嗅覚が語り、彼から放たれている香りが示している。
何の説得力のかけらもない運命論と言われても構わないから、無理でもチュイはジョイナーの事を知ろうと思っていた。
「なんで、先生のことは教えてくれないんですか?」
「チュイちゃん、あまり聞かない方が良いんですって」
「じゃあ、校長先生は……。校長先生も世界樹の出身で、先生と一緒に来たんでしょ? 先生のことが聞けないなら校長先生のことでも良いよ。何か教えて?」
「それも、聞かない方が良いね……」
悔しそうに唇を噛むチュイ。
「じゃあ……、ワンさんは? ワンさんも一緒に赴任してきたよ」
「聞いちゃだめだ」
「なんで!?」
困ったワンは低い声でうなると、ちゃんと言い聞かせるようにチュイたちに近づいた。そして、座っている彼らに向かって屈み、視線を合わせてから静かに言ってやった。
「三年前に来た拙者達のことに関しては、全て禁則事項に触れることなんです」
それは、他言を許されないという意味も含まれている。
「もちろん拙者たちですら、互いの事情を知っている部分もあるし、知らない部分もあるぐらいです。なぜケンブリー殿が、君たちとフレイソル君に、今回の課題を与えたか分かりますか?」
チュイが首を横に振り、バルバロも眉間にしわを寄せて頭を掻いている。
八重子だけが事の真意を察した。
「そう、それで教職員の方々は、校長は人が悪いとか言っていたのね……」
悔しそうに唇を噛む彼女を見て、ワンが小さく頷く。
「多分、神室さんの想像通りでしょう。禁則事項に触れるが故に、この課題は両者共に達成できるはずがないのです。詰まるところケンブリー殿の一人勝ち。もともと、ケンブリー殿に何を言ってもジョイナー殿を辞めさせることもできませんが、それ以前に、あなた方は情報を集めることすらできないのです。ですから、今回の勝負は何もしなくても、チュイちゃんの勝ちは決まっていたわけでございますよ。だから、これ以上嗅ぎ回らない方が身のためです……。おわかりいただけましたか?」
ただ、静かにうつむくチュイ。
バルバロがチュイの頭に手を乗せる。
「きんそくじこう。やぶるの、だめ。やめるのが、いい」
八重子も長い耳を垂らしてため息をついた。
「分かりました……。とりあえず、ジョイナー先生が解任されることはない。ということでよろしいのですね?」
ワンは深く頷くと、笑みを浮かべた顔を上げた。
「ええ、決して解任されることはございませんとも」
それを聞いたチュイが、「分かりました。ありがとうございます」と静かに応えると、ワンは「それで良いのです」と、チュイ肩を叩いて、再び上空へ飛び上がっていった。
その姿を追いながら、ワンの背中にベッと舌を出すチュイの姿を見て、八重子とバルバロは、まだ彼女が諦めていないと知った。
と、その時、特別教育部の中から、似た者の声。
『俺は諦めんぞジョイナー! 貴様が何であろうと、必ず尻尾を捕まえてやるからな!』
暑苦しいフレイソルの声が、外にまで響いていた。