ときもとまる風鈴荘 1話『モノリスはいります』②
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『縦書き版』 <前回のお話: * :次回のお話>
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私が内見をお願いした所は、風鈴荘という社会人寮だと三井さんは言った。
私は三井さんに案内されると、彼が運転する軽自動車に乗って、その風鈴荘に向けて移動をはじめた。
車は寮のある南側の町ではなく、開発や整備がされていない古くからの集落がある、北の山側へと向かって走っていた。
南側のように古民家を使った町作りがされているわけではなく、電線も空にぶら下がっている。しかも周りは田畑を持つ大きな家々と、広がる田園風景。車で五分も行けば視界が開けて、山嶺と田畑、倉庫や小さな工場が見えてくる。
作られた感じのしない、人の営みが自然に作り上げられた光景だった。
今まで、南側ばかりを気にしていたから知らなかったけど、何だか作り手に楽しまされているような気がしない、落ち着いた喜びを私は感じていた。
「北側は新鮮でしょ」
三井さんが、何故か得意気に私を見ている。
この人は悪い人じゃないんだろうけど、振る舞いの端々が鼻につく。
「そうですね……。ここって本来は田舎なんだなって感じます」
「交通の便が発達すれば、周りの見栄えも変ってくる。南側は古くから長屋などに住む町人の地だったけど、北は平安の世から続く家もあるような旧家が、広い敷地を束ねているんだ。皆様、土地に誇りをもっていらっしゃるので、多少経済的に苦しくとも、簡単に土地を切り崩したりなどせず、こうした現状を保っているんだよ」
(へぇー)
三井さんが笑顔なのは、そういう人が好きだから? この人も地元に密着した仕事をしてるから、地元を愛する人が好きみたいな。
私にはよく分からなかった。
でも、流れていく風景が心を落ち着かせてくれるのは、そういう人たちのおかげなんだろう。
と思うと、何だか三井さんが、北側を案内してくれる気持ちが分かった気がする。
私が寮を嫌っていたのは、確かに皆があくせくしていたからだ。だけど実は、そんな人達と一緒に、好きだと思っていた南側の町も、本当は嫌いだったのかもしれない。
古民家、カフェ、雑貨、カメラ、ギャラリー、カワイイとか言われる文化……、全部好きだけど、何だかオシャレに捕らわれていて、周りに急かされていたような気がする。オシャレが好きな自分が、オシャレで好きだっただけだったような気がする。
窓から見える、何でも無い光景が、凝り固まった私の胸の内を溶かしていく。
そして、車は田園を横たえながら坂道を上り、山の麓へ向けて走っていった。
車が風鈴荘に着いたのは、それからわずか十分。
場所は本当に、山の麓と伝えるのが正しいと思う。
駅から町を抜け、昔からの田園風景を見ながら、木々が生い茂る山の麓へ進むと、次第に山の姿が大きく迫ってくる。すると、道は山を越える曲がりくねった方角と、脇に逸れて山と田園の境を走る方角に別れ、風鈴荘へは後者の方に入って向かうことになる。
走る車の右側は木々の溢れる斜面、左側は田園風景。私は車に射し込む木洩れ日に目を瞬かせながら、自分の行く先を見守った。
すると右手の木々が生い茂る斜面の方に、白く滑らかな漆喰の壁と、黒く輝く瓦屋根の屋敷が見えてきた。車はその敷地の中へと入っていった。
車のタイヤが砂利をザラザラと鳴らし、駐車場の中に侵入していく。
私は三井さんがサイドブレーキを引くのを確認すると、車を降りて辺りを見回した。
「わぁ」
下りた瞬間に、鼻孔を通り抜ける自然の香りが、胸の奥に浸透していく。
今じゃ慣れてしまったけど、最初に風鈴荘に来た時に感じた自然の香りは、何とも言えないぐらい胸の中に広がっていったのを覚えている。
私は内見の事も忘れてボーッと辺りを眺め続けていた。
「車でたった十五分。それで、こんなに景色が変るとは思えなかったでしょう」
私が砂利の上に立ったまま、遠くまで広がる自然の光景に見とれていると、三井さんが声をかけてくる。彼の声は先ほどと変らず得意気だった。
「さて、百々さんが見とれている間に鍵を借りてきました。今日はちょっと管理人の方に余裕がないそうなので、勝手に見て回ってしまいましょう」
「いいんですか?」
「もちろん、勝手知ったる管理物件なんでね」
三井さんが歩き出すと、私も踵を返して建物に向かった。
初めてちゃんと風鈴荘を見た時は、本当にこれが人の住んで良い家なのか戸惑った。
さっきも書いたけど、漆喰の壁に黒い瓦の屋根だ。しかも、正面まで来ると歴史を感じさせる石垣が圧倒して、三メートル近くありそうな長屋門が私を見下ろしているのだ。
そう、アパートでも寮でもなく、れっきとした屋敷にしか見えなかった。
「あの、本当に入って大丈夫なんですか?」
おずおずと聞いた私の言葉に三井さんが鼻で笑って返す。
「大丈夫。出で立ちこそこんなのだけど、社会人寮として使われているから」
彼が大きな門戸を開いて足を踏み入れ、私を中へ促すように横に外れると、私も石垣の階段を昇って、長屋門の扉を抜けた。
そして私は、飛び込んで来た光景に、また驚かされてしまった。
目の前には、玉石の敷き詰められた地面に石畳が伸び、旅館とも思えるぐらい大きな平屋の日本家屋が建っていたからだ。建物の入り口には、『風鈴荘』と書かれた木看板が吊され、旅館のようなガラス張りの六枚扉にも、白く『風鈴荘』と書かれている。
「――なんだか、旅行に来たみたいです」
「あながち間違ってませんよ」
少しふざけて緊張をほぐそうと思ったのに、真っ直ぐキャッチされた。
「間違ってないんですか?」
「えぇ、風鈴荘は元々、この山の頂上にあった城に仕える武家でね。ここも本来は武家屋敷だったんだけど、明治以降は新しい食い扶持を得る為に旅館に改装して、交通網が発達して宿場の役割を果たせなってからは、こうして寮として運営されている」
それは面白い。と、私も素直に思った。
「正面に書かれた風鈴荘の文字も、旅館の頃の名残だよ」
そう言って三井さんは辺りを見回すと、鼻から一つ息を漏らした。
「そのまま中に入って内見をしてもらおうと思ってたんだけど、どうせなら、外からぐるっと建物の周りを見て廻ろう。建物のサイズ感や雰囲気をもっと深く味わうことができると思うからね」
こうまで言われて断る理由もないし、この物件の事は彼が知っている。だから私は、「案内は任せますと」三井さんに言うと、風鈴荘の外から廻ることにした。
正面玄関の右手に周り、従業員たちの駐車場を抜けると、塀に沿って母屋の外側をぐるりと廻る。どうやら廊下は屋内ではなく、縁側として建物の周りを走っているらしく、とても風通しがよさそうな印象だった。
そこから更に廻ると、母屋と繋がる別の建物が
あった。湯気をもうもうと立てているそれは、写真で見せてもらっていた露天風呂だった。その時、三井さんが「夕方五時から夜八時までは家族風呂優先だから、九時ぐらいからじゃないと、どっかの旦那さんと鉢合わせるかも」と言っていたので、私は今も夜の十時にお風呂に入るようにしている。
その風呂を塀に沿って裏から抜けると、出てきたのは長屋門の裏だった。
塀に沿って桜が立ち並び、その根元に立つ私の目の前に、枯山水が描かれた中庭が広がっている。この中庭は花見などの行事でも使われるらしく、母屋と風呂、そして住人たちが居る居住棟に囲まれていた。
「三井さんの言う通り、外から廻ると、位置関係が分かりやすいですね」
「そうでしょ? まぁ、ここを案内する時ぐらいしかしないけどね」
私たちは塀に沿って居住棟の裏に回り込むと、最初に入ってきた長屋門へと向かう。
母屋から繋がる居住棟の脇に出ると、そこには小さな池と木々があり、岩肌に薄らとコケがはえているのがちょっと魅力的だった。そして、焚き火の跡が人が住んでいる息吹を感じさせた。
これでとりあえず一周。
私はあまりに特殊な環境に胸を躍らせながらも、「四万かぁ……」と呟いていた。
正直、こうした普通の内見だったら、私は物件を決めていたとしても、即決はしていなかったかもしれない。
でも、この直後に起きた出来事が、私を入居する決定打になった。
三井さんの後ろについて、居住棟から離れようとした時、首を何かに引っ張られた。その時着ていたパーカーのフードをぐっと引っ張れたような感じだ。