世界樹の魔法使い 3章:三年前と元研究員④
***
チュイは体が分解されるような苦痛の中、限界に達して意識を失った。
おそらく、呪いに命まで飲み込まれないように、体が意識をカットしたのだろう。
自我が途切れる瞬間は、脳の中を吸い取られるように、もう一人の自分がスルッと引き抜かれたようだった。
チュイに呪いが襲いかかったのは、彼女がグラウンドから北の丘を目指して間もない頃だった。
足を踏み外すと簡単にケガをしてしまいそうな岩場を、夜闇を照らす微かな光を頼りにして歩いて行く。尖塔を抜け出す時に使った道と似ている足場とはいえ、硬質で足場の安定しない複雑な地形は、いつチュイたちに怪我をさせてもおかしくはなかった。
下の舗装された石畳を行けば、二十分もあれば北の丘の入り口に着くのだが、一歩ずつ足下を確認して歩いていくとなると、簡単には辿り付くことができなかった。
「よっほっ、ふん」
そんな道も、チュイにとっては問題ではなかった。普段から体は健康で身軽だし、足下をちゃんと見ていれば、余裕を持って進むことができた。呼吸を荒くして動きが遅くなってきた八重子を見て、「はいっ」と手をさしのべる余裕があるほどだ。
こうして、四十分ほど時間をかけて進むと、周りの岩場が姿を変えて、土と草が姿を見え始める。足の裏に伝わる感覚が、硬質なものから柔軟なものに変わってゆき、それが徐々に草を踏みしめる感覚に変わると、ようやく北の丘に近づいているのが分かった。
チュイは一息つくと後ろを見た。
バルバロはすぐそこに居て、八重子は少し遅れて来ている。
二人に手を振ると、チュイは北の丘を見て、むんっと表情を引き締めた。
それは、ジョイナーの口から自身の事を教えてもらえるかもしれないという期待と、どんな女性に会っているのだろうという不安が、彼女の心をざわつかせるからだった。
早くジョイナーに会って話しを聞きたい。
早くジョイナーが会う女を見てみたい。
チュイの心を支配する強い感情が、彼女の足を再び進ませる。
そして、既にジョイナーが見えるかもしれないと、目を懲らして丘の頂を見た。
その時だった。
一瞬チュイの目に、黒い炎のようなものが空に舞い上がる光景が映った。
「どうしたの、チュイ?」
遅れた八重子が追いついてきて、口を開けて立ち止まっているチュイに声をかけた。
「今、空に何だか黒い炎みたいなの、見えなかった?」
「私は別に気づかなかったけど」
「あれ? ……ねぇバルバロは見えなかった?」
「うぁ? ばー。……わからない」
「――そっか」
チュイは再度、北の丘の頂に目を懲らしてみたが、もう黒い炎は見えなかった。
既に北の丘では、何かが起きているのかもしれない。
「あれ?」
だが、黒い炎は見えずとも、彼女の体には異変が起きていた。
チュイは、自分の体が急に疲労が溜まったように重く感じた。しかも、呼吸をして肺に入る空気も、砂でも入れているかのように重く感じる。
隣のバルバロを見ると、彼も息を切らしていて、二人は目を合わせて互いの不調を苦笑した。八重子は二人を見ながら「二人とも体力だけは十人分ぐらいありそうなのに、不思議なこともあるのね」と、少し小馬鹿にしたように笑い、チュイも「ほんとだね」と、笑って返した。
だが、一歩二歩と歩みを進める度に、そんな余裕はなくなっていった。
一歩ずつ足が重くなり、間接が錆びた機械のように軋んで痛む。
最初の異変から数分も経たない間に、チュイの足は鉛のように、体中の筋肉が邪魔なぐらい痛むようになっていた。そして、頭の中をふっと抜かれるような目眩を感じると、彼女は気づかないうちに八重子に体を支えられていた。
「なんで? おかしい。……こんなこと、今までないのに」
「ちょっと、チュイ!」
チュイは、少し虚ろな意識のまま八重子を見上げ、心配する八重子の顔を見た。
こういう時こそ助けを借りたいと、八重子がバルバロに顔を向けると、彼もまた四つん這いになって、苦しそうな呻き声を上げていた。
チュイとバルバロが同時に体を壊して倒れるなど考えられることではなかった。体が丈夫という理由だけではない。目の前の二人が、同じタイミングで同じ症状を発症するとは、思えなかった。
同時に同じ毒を盛られても体質差はあるはずだ。
チュイは自分の意識が朦朧としてきているのを感じていた。
「チュイ、ちょっと座ってて……」
「うん……」
八重子に座らせてもらうと、彼女が四つん這いになったバルバロに向かって走っているのが見える。
途端に、チュイの視界がグルっと回転した。
土と草が目に飛び込んでくると、チュイは自分が倒れたのだと分かった。
不思議と痛みは感じず、弛緩しきった筋肉は力を出そうとしても上手く動いてくれなかった。
自分の体がどうなっているのか、体の感覚が伝わってこない。
このまま消えてしまうのだろうか。
そう思えるぐらい、自己の存在があやふやになってくる。
だが、あやふやになった自身の存在は、突如、激痛としてチュイに舞い戻ってきた。
「―――――!!!」
ひゅっと空気が抜けるような声だけが出る。
何も考える余裕はなくなり、一瞬目を見開いて、魚のように口をパクつかせると、ただ堪え忍ぶように、強く体を丸めて目を瞑った。
体に感覚は戻ってきたが、感覚を恨み尽くすぐらいの苦痛が体中を襲っている。自分の体をつぶして、この痛みから解放されるなら、いっそ自分の体を壊した方がマシなぐらいだった。
ぐっと目を瞑った暗闇の中で、八重子の声が聞こえる。
「チュイ! チュイ! なんで、どういうこと!? バルバロも……、何で!? チュイ、バルバロ、誰か! たすけて……たすけてあげて……」
八重子の言葉が耳に飛び込むも、痛みに耐えるだけで精一杯だった。
その痛みを、どう例えたら良いのかは分からない。
だがチュイの体は、まるで刃物で何度も切り刻まれて、切っ先で何度も肉をえぐられているようだった。内臓も際限なく押し潰され、すり鉢で自分の肉塊をゴマのようにすりつぶされているようだ。体中の節々をハンマーで叩き潰されているようだった。。
止めてとは言わない……。
止めてと言おうなんて思わない。
ただ、いつ『殺して!』と言ってもおかしくなかった。
刹那、全身が粉にされるような強烈な感覚が襲う。
強く瞑られたまぶたの裏で、暗い光景が白くとび、懐かしい自分の故郷が見えた。
遙か西の国、人と共に暮らしてきた犬の獣人が住む高原。人間と良好な関係でも、いつも父や母は不満を持っていた。自分たちをかわいがる人間を、疎ましく思っていた。今ではその気持ちが少しわかる。
だから、ジョイナーについて行こうと思っていた。あの人は、誰に対しても何故か平等に態度が悪く、適当で、暑苦しい。同じように怒って、同じように笑う。
耐えるのも嫌になるような苦痛の中で、チュイは声を上げると、最後はジョイナーの事を思い浮かべながら、ふっと意識を飛ばした。
その瞬間はやはり、全てから解放されたような安らかな心地だった。
***
どれほどの時間が経ったのかチュイには分からなかったが、それでも彼女は目を覚ました。本当に時間が経過したのか分からない無という時を経て。
突然自分を襲った痛みから逃れられた時、どれほど解放された心地だったか。
穏やかに意識を取り戻したチュイだが、始めに彼女を襲った感覚は痛みだった。
頬に岩でもぶつけられたかのような深くめり込む感覚と鈍痛。
それでもチュイは表情を歪ませることなく、目の前に居る男を見た。そこにはジョイナーが居る。彼が何を言っているのかは分からないが、自分に対してひどい剣幕で怒鳴りつけているのが分かった。それを校長のケンブリーが、慌てて宥めるように声をかけている。
だが、それでもジョイナーの勢いは収まらない。ケンブリーの体を腕でどけると、再びチュイの前に迫ってくる。
そんなジョイナーの瞳に映った怒りの色は、チュイに自分が悪いと思わせるには十分だった。
目が覚めた時と同じように頬に鈍痛が走ると、先ほどの頬の痛みも、ジョイナーが自分を殴ったからだと理解する。強い痛みだが、気を失った時の痛みと比べたら、些細だった。
それよりもチュイは、ジョイナーに殴られているという状況に心を痛めた。
(でも、殴られても仕方ないかな……)
チュイが自分の罪を認め、ジョイナーが次の拳を振り上げようとしていた時、八重子が泣いて間に入ってきた。それでも振り下ろされた拳を、バルバロが間に入って受け止めている。
見開かれたジョイナーの目には八重子もバルバロも映っていない。
まっすぐな目で、怒りをチュイに向けている。
すると、声をかけていたケンブリーがジョイナーの顔を平手で叩いた。
雷を合わせた平手が、ジョイナーの顔面で青く弾けると、彼は茫然自失といった様子で頬を押さえ、チュイの視界から去っていった。
ジョイナーは、ストンと落ちるように椅子に座っていた。そして彼は、しっぽと耳を垂らした八重子と、大切な牙を一層剥きだしにしたバルバロに頭を下げると、俯いたまま頭をあげなかった。。
徐々に、チュイの耳に周りの音が入ってくるようになり、視界が少し鮮明になる。まっすぐ天井が見えてくると、ここが医務室だということが分かった。
最初に入ってきた声はジョイナーのものだ。
「本当に……、本当に情報の出所はリズィなのか……」
ジョイナーは愕然と絶望的な目をすると、舌を打って「あのメス……」とぼやいた。
それにケンブリー難しいで答えていた。
「リズィにはさんざん迷惑をかけているからね……。だけど、タイミングが悪すぎる。よりによって今日の事を教えるなんて」
「くそったれ、お前らに情報渡した方も最悪だが、それで俺たちを探し出すお前らもお前らだ……。まぁ、リズィはケンブリーの女だし、お前らはあくまでも学生だ。こうなったら、ワンに全部、罪をかぶってもらうかな」
青筋を立てままのジョイナーに、ケンブリーは難しい顔をした。
「そりゃ、いくら何でも横暴すぎる」
ジョイナーは「へっ」と、吐き捨てるように鼻で笑うと、立ち上がってチュイに近づいてきた。
天井だけが映る彼女の視界に入ってきたのは、先ほどまでの怒り狂ったジョイナーではなく、怒りは残りつつも、大体いつもと同じジョイナーの顔だった。
ベッドまでやってきたジョイナーと視線が絡むと、彼は口を開いた。
「怒りにまかせて殴ってしまった。……すまない、本当に悪いと思ってる」
その言葉を聞いてチュイが微笑むと、ジョイナーはホッとして肩の力を抜いた。
「良かった、聞こえてるな。正直、俺の拳よりも呪いの方が随分と堪えただろう……。まぁ俺たちの邪魔をするには、でかい代償だったろうな……」
チュイはジョイナーの引きつる顔を見ると、謝罪をされたところで結局自分が悪いことには変わりないのだと思った。
チュイが自分がしたことに不安になると、彼女の顔にジョイナーが触れた。
彼の手は大きく、硬く、暖かく、心地よさを感じるものだった。
そして、チュイは自分の体が魔法で治癒力強化を受けているのに気付いた。
会話の音の中に魔法の発動も含めるのは、さすが師といったところだった。
「お前はナリが小さい割に、やることが派手なんだよ」
チュイはジョイナーの小言を聞きながら感覚が戻ってくるのを感じていた。
指や体の筋肉がピクピクと痙攣していいる。自分の意思ではないのに体が動くのは妙な心地で、自分の体ではないみたいだった。
「で、どうして俺のことを探ったんだ」
チュイは消え入りそうな声で言った。
「先生が居なくなるのが嫌だから……。それに、私は、先生が好きだからだよ」
ジョイナーはチュイの額に手を乗せながら、彼女の回復力を強化し続けた。
「本当に何考えてんだ……、俺は三十路も手前。お前から見たらおっさんだろうが」
「ううん関係ない、私は先生がいいの……。私の中の私が言う、先生がいい、先生についていけって、理屈じゃなくて、それがいいの」
ジョイナーは難しい顔をして、溜め息をついた。
そして、彼はケンブリーを見る。
「お前の彼女は察しが良すぎるんだよ……」
「男としては困るけどね」
ジョイナーは大きく息を吸い込んで、盛大な溜め息をつくと、チュイを見た。
「本当に俺につきまとうつもりだな?」
「うん、ずっと……」
淀みないチュイの返事にジョイナーは口を閉ざすと、うなり声を上げた。
「――そうか、そうかよ。そこまで本気なら、俺は、俺を師として付いて行く覚悟のあるお前に、全てをさらけ出さなくちゃいけない。それは、お前と俺が後悔しないためだ。全てを聞いた後で、お前は自由に決めればいい」
そして、ベッドに戻ったバルバロと隣の八重子を見るとジョイナーは続けた。
「お前らもチュイについて行くってことは、俺に付いてくるってことになる……。だから、お前らも聞いてから判断すれば良い」
そう言うとジョイナーは溜息をついて目を瞑った。