世界樹の魔法使い 3章:三年前と元研究員③

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 北の丘には柔らかい風が吹いていた。
 ケンブリーの髪がふわりと流され、髪の毛が一本だけ眼鏡の隙間に入り込む。それでも彼は表情を変えないまま、落ち着いた様子でそれを手で払いのけた。その目は夜空の先を見つめていた。
 魔法を学ぶ者であれば、ケンブリーを見ただけで厳重であることが分かるだろう。彼が纏っているのは、かなり分厚い対呪詛用のローブだ。あまりの厚さに布が曲がらず、甲冑のように、間接が用意されている。レザーアーマーと言っても語弊がない頑丈さだ。
 それに対してジョイナーの姿は随分と楽な格好だ。
 学内で着用しているローブすらも草原に放られていて、着ているものといえば、タンクトップと黒いパンツぐらいだ。月明かりの下に筋肉の膨らみと、引き締まった逆三角形のボディラインが晒され、肘から下を強く巻き付けた黒い布も露わになっている。
 そんなジョイナーもまた、遠くの空を見つめていた。
 北の丘から二人が見つめているのは遙か南方。
 黒睦夜滝が殺されて命を失った、あの砂漠の世界樹だ。
ジョイナーは手を握りながら、生々しい彼女の内臓の感触を思い出していた。
筋肉を破壊され、ミキサーをかけたようにグズグズになった内臓が、彼女の腹の中に沈殿している感触。ローブを纏っていても分かるぐらい、内蔵を支えられなくなった腹部は膨れ、完成したばかりのリンゴジャムが、ジョイナーの手を妙な柔らかさと熱で包み込んでいるようだった。
 手に残った感触を思い起こしながら一度目を瞑ると、ジョイナーは自分が世界樹を後にした時を思い返して、特別教育部の頂を見た。
 ちょうど青い炎が、役目を終えるようにして静かに消える。
 零時という無の時間。
今日と明日、昨日と今日の境を越えて、夜滝の死んだ日がやってきた。
ケンブリーが注意深く辺りを見回し、ジョイナーが大丈夫だという意味を込めて頷く。この間も、ワンに誰も入れないように伝えたばかり。二人は今、監視の目に守られているはずだった。
 だから、何も心配することはない。
躊躇することもない。
「はじめようか、ジョイナー」
 そう言ってケンブリーが芝生の上に座ると、ジョイナーも芝生の上に座る。そして分厚いローブの中からケンブリーがワイングラスを三つ取り出すと、ジョイナーは芝生に手をかざして「ふっ」と声混じりの息を吐いて魔力操作を行った。
イメージするのは、ワイングラスがおけるような平たいテーブル。それがジョイナーの中で容易くイメージされると、草の上には黒くて四角いテーブルが作られた。
その上にケンブリーはワイングラスを置くと、続けて赤ワインの入ったボトルを一本取り出す。慎重にコルク栓を開けると、彼は瓶の底を持ってグラスの口に近づけた。
あふれ出たワインが静かにグラスの中で波を作り、強い月の光が、仄かな赤みを浮かばせる。
 ジョイナーは夜滝の分のグラスを手に取ると、彼女が死んだ方角に向けてテーブルに置いた。そして自身もグラスを手に取ると、ケンブリーも自分のグラスを手に取った。
 ジョイナーはふっと息を吐くと、改めて南を見る。
 二人にとっての悼みの準備が整った。
「久しぶりだな……夜滝」
「久しぶりだね、黒睦さん」
 二人が誰も居ない夜滝のグラスに微笑んで乾杯すると、薄いガラスが震えて、チンッと澄んだ高い音を鳴らした。
 もしも、誰かを悼むということが、その人を想い、悲しみ、苦痛にあえぐ事だとするならば、これが夜滝を失った事に対する二人の苦しみ方だ。病気でもなく事故でもなく、殺されてしまった彼女への悼み方だ。
ジョイナーとケンブリーの中に、まだ黒睦夜滝は生かされている。
彼女の死を事実として認識し、理解していたとしても、心は彼女の死を認めない。
それは二人とも、夜滝の死を認めることはできても、死の理由を認めることはできないからだ。
 ジョイナーは軽くワインに口をつけると、目を伏せて口を開いた。
「夜滝……、結局俺たちは今年も、この鳥かごの中で過ごしてしまった。いくら待っても、お前の死に繋がる新しい事実を知ることはできなかった。ケンブリーは頑張ってくれているが、俺は捕らわれたまま身動きをとる事ができない。ただただ、平穏な三年目が過ぎていって、一歩も聖天都市を出ることなく、天刺す尖塔と聖天都市での生活に慣れてきただけだ……。俺は世界樹の中では死んだ人間だからよ、何も伝えられることもなく、ただ形だけの師として飾られている……」
 静かに語るジョイナーの口が閉ざされて、いささかの静寂。
 一つ風が吹くと、次はケンブリーが口を開いた。
「黒睦さん……、ジョイナーが言ってくれたように、僕も君が殺されてしまった理由を探ってみた。だけど、僕の方も空振りばかりだ。情報を管理してくれている秘書官に聞いてみても、天刺す尖塔に流れてきている情報はないみたいなんだ。どうも、僕たち魔法歴史研究局の人間のことは、秘密にされている……」
 そう、なぜか自分たちの事が秘匿されている。
 その事にジョイナーもケンブリーも苦々しい顔をした。
「世界樹は僕たちの過去と人間の事を隠したがっている。黒睦さんの死も、魔法歴史研究局の事も……。そうでないと、僕とジョイナーが天刺す尖塔に飛ばされる理由なんてない。他の仲間も多分、今頃辺境の地に飛ばされているはずだと思う。少なくとも今年分かったことは、他の研究員も既に世界樹には残っていないということだけだ……」
ジョイナーとケンブリーは、何も言わず姿も見せない一人の女性に、今年一年のことを告げていく。まだ二人の中で生かされている彼女に現状を報告するのが、彼女の命日にする恒例行事だ。
 恐らく、彼女の死に関する事実が分かり、納得することが出来た時に始めて、ジョイナーとケンブリーの中で黒睦夜滝という女は死ぬのだろう。
「もう三年だ。さすがに俺も尖塔に閉じ込められたままじゃ、お前の真実を探るのは無理なんじゃないかと思いだしたよ……」
 ジョイナーが自嘲気味に口元を緩めて笑うと、ケンブリーは目を丸くした。
「それは、黒睦さんが死んだ理由は、もう探らないってこと?」
「そうは言ってねえだろ……。要はここに居たところで、夜滝の事は何も分からないことがはっきりしてきたってことだ。ケンブリーは、たまに出張があるとはいえ、入ってくる情報なんざ高が知れているだろ? それに俺もお前も、世界樹のお達しでここに縛られているんだ。おいそれと出て行くことはできない……。俺たちは世界樹に忠誠を誓った魔法使いなんだからな」
「そうだね、これ以上の情報を得るには、世界樹に逆らってここを出るしかない」
「やるか?」
 いたずらっぽく口角をあげるジョイナー。
 それを見たケンブリーは、ぷっと吹き出すようにして口を押えると微笑みで返した。
「まさか、僕は何があっても世界樹を信用しているし、世界を纏めることに成功している世界樹を誇りに思っている。ただ唯一、黒睦さんのことだけが気になるだけだ……」
 ケンブリーは冗談めいて微笑んだが、ジョイナーは表情を固くしていた。
「まさか、ジョイナー……お前」
「よしてくれ。俺もそこまで肝玉が座ってるわけじゃないさ」
「そうか、そうだよな」
 ケンブリーはジョイナーの返事を聞くと、ふっと肩から力を抜いた。
 そして、ジョイナーは一杯目のワインを飲み終えると、減ることのない夜滝のグラスを掴んで、中身を辺りにぶちまける。
 静かな夜の光に照らされて、宝石のようなワインの玉が散っていった。
「なんだ急に」
「へっ、今日は特別な酒があるんだよ」
 ジョイナーは床に落ちている自分のローブから一本の瓶を取り出した。
 中で揺らめく液体は純度が高く、澄んでいて、純水のように透明だった。
「それって、水じゃないのか?」
「いや、違う……。大陸から離れた島、夜滝の故郷に伝わる酒だ。バーのマスターに無理を言って取り寄せてもらってた。手に入れるのに二年かかった……」
「それはすごいな」
「んだろ? これが米から出来てるなんて信じられるか? 凄い純度だ……」
 ジョイナーはそう言うと、瓶から透明な酒を夜滝のグラスに注ぐと、中に残ったワインをすすいで、貴重な酒を捨てる。そして再度、酒を注いで黒いテーブルにのせると、揺らめく光が酒を通して、少しテーブルに落とされていた。
 ジョイナーとケンブリーは夜滝の故郷の酒を飲むと、今年一年の事を彼女に伝えていった。さっきまでのように暗い話ではなく、ただ単純な日常を、彼女とも共有するように、全て思い出しながら言葉を紡いでいく。
学校にこういう生徒が居る、こんな授業をした、飲みに行った先でこんなことがあった、最近思っていること、記憶にあることは何でも夜滝に伝えていった。
 ジョイナーは記憶に新しい事を思い出しながら笑った。
「そういや、今は俺を学校から追い出す、追い出さないで学生同士が争ってたんだよ。バカみたいだろ? 魔法使いだから仕方ないのかもしれないが、フレイソルって貴族の坊ちゃんが、なかなかの人間至上主義でよ。もちろん、獣人の奴らとケンカだよ」
「僕はそれに巻き込まれて本当に、迷惑なんだけどね……」
「今回の件に関しては、みんなで飲み過ぎたのが原因だろうよ」
「何を偉そうに、そもそもジョイナーが普段から生徒に慕われる行動をしていれば、こんな事態にはならなかったんだ。生徒同士がいがみ合っていたとしても、僕にまで波及してくることはなかったね」
「っても、普通こんな大事になるかぁ?」
「チュイが君に構うからねぇ……。あの子が居なけりゃジョイナーはただの嫌われ役で済んだのかもしれないけれど、あの子はジョイナーに恋してるからね」
「こいだぁ? 夜滝の前でやめろよ。大体、授業以外じゃ関わり合いもないのに……」
 ジョイナーはチュイの存在を追い払うかのように、げんなりとした顔で虫を手で払うような仕草をとる。
 それをよそにケンブリーは、顎に手をやると「ふむ」と少し考える様子を見せた。
「ねえジョイナー。犬の獣人っていうのはね、色んな臭いに惹かれるそうだよ。危険な臭いや、安心出来る臭いとか色々。たぶん、臭いっていうよりも勘が鋭いんだろうね。だから、チュイが君に感じているのも、もしかしたら本能的な恋なんじゃないかな? そうなると、彼女は本能的に君に抱かれたがっている……」
「だああ! これ以上あいつの話をするなら、もうやめだやめ! 今年の報告はこれで終わり! しゅーりょう!」
「えー」
「えーって言ってる間に覚悟しとけよ。ここからは俺の訓練の成果発表だからな……」
 ジョイナーがちゃっちゃかと動き始めると、ケンブリーは慌てて分厚い対呪詛用のローブを纏い直した。目元以外はでないように意識して厳重に。
 準備をしはじめたジョイナーもチュイの話をしていた時とはまるで様子が違う。瞬く間に緩んだ顔を引き締めて、濃厚で重い空気を漂わせ始めていた。
 ケンブリーにとって夜滝への悼みは、悲しくもあり、少し楽しくもあるが、このジョイナーの訓練成果発表だけは恐怖でしかない。
 訓練成果発表とは何か。
それは、ジョイナーの黒い布で覆われた黒腕を開放することだった。黒い布の下に隠された四十五の呪いに、どれだけ耐えることができるか。自分がかぶった四十五の罪を事実として認めず、最後まで抗う行為だ。
 ジョイナーの宣言から一気に空気が張り詰めると、空から降る淡い光すら冷たく感じられるようになる。
ジョイナーが少しずつ息を整えて気持ちを安定させていく姿を、ケンブリーは一気に酔いが冷めた状態で見守っていた。
 しんと静まり返った北の丘に、音も無く風が凪いでいく。
 ジョイナーは静かに目を瞑ると、一定にした呼吸のリズムを繰り返して、精神をゆっくりと統一させていった。
 頭の中を支配していたアルコールがすっと肉体に溶け込んでいくように消えていき、更に呼吸を繰り返すと、意識が少しずつ澄んで明瞭になっていく。呼吸を繰り返しながら自分の肉体の感覚を再確認し、呪いに体が壊されないように、全身に力を込めていく。
そして、心を芯から折られないように、体の中心に魔力を込めていった。
 ジョイナーは自分の体に熱が篭るのが分かった。
膨大なエネルギーを消費しながら、自分の肉体が自分を護ろうとしている。
「ケンブリー、やるぞ……」
「あぁ……」
ジョイナーは右手で左肘にある黒い布を掴むと、ゆっくりと解いていく。腕を下ろすと、布は音を立てずに螺旋を描いて地面に落ちてゆき、ジョイナーの腕に刻まれた複雑な紋様が、黒い光を帯びて浮かび上がってくる。
その腕に刻まれた紋様は、まるで体に開けられた穴のように漆黒だ
 刹那、紋様から黒い靄のような光があふれ出した。炎のように揺らめく黒い靄は、触れるだけで体が侵されそうな程、禍々しく気味が悪い。
 少し離れているケンブリーは、強力な対呪詛用ローブを着ているにも関わらず、そのプレッシャーを強く感じていた。
 ジョイナーも鍛えているとはいえ、さすがに十の呪いが姿を表すと、少しずつ体が浸食されていくのを感じていた。それでも尚、彼は自身の呪いを解放し続けた。
 ゆっくりと黒い布が落ち、十一・十二・十三と、呪いは更に姿を表していく。
 ジョイナーは増加する負担に耐え、自分の生気を維持するように熱を帯びる体から、蒸気のような汗を流し始めていた。
 彼の作ったルールは一つ。
自分で布を戻せなくなる限界にたどり着いたところで終了ということだ。
 今のところの記録は二十。あと二つで左腕の呪い全てに耐えることが出来る。
 布が落ちて、十五個目の呪いが姿を表した時、ケンブリーは護られているにも関わらず、軽いめまいを感じた。
 こうした光景を目にすると、ケンブリーは素直にジョイナーをすごいと思った。呪いに耐えるのも、ジョイナーにとっては夜滝に対する誠意の証だ。それを考えると、ケンブリーは自分にも同じ事ができるだろうかと思う。自分はリズィという女を女性として愛している。だが、それだけでジョイナーと同じことが出来るとは思わない。
きっと、ジョイナーは夜滝に女性への愛情以外のものを感じているからこそ、ここまで滅私とも言える行為ができる。そう、彼にとって夜滝とは、女性であると同時に尊敬出来る相手であり、自分をもう一度産み落とした全て。彼の夜滝への愛情は、一言で語れない程、何乗分も上乗せされている。
 ケンブリーはジョイナーの呪いの影響を受けながら、そんな事を思った。
 その間にもジョイナーが開放した呪いの数は二十に達し、ケンブリーは胃からせり上がってくるような気分の悪さを無理をして押さえ込んだ。
 ジョイナーは腰を落とすと全力で力を込め、隆々とした筋肉に血管を浮かせながら、歯を食いしばった。それでも、四十五個の呪いを植えられたときを思い返すと、随分マシだった。
「ぐぅぅぅぅ!」
 声を上げて記録に挑戦しようとしたその時、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。
 小さく聞こえてくる叫び声は悲痛で、ジョイナーもケンブリーもよく知っている。
『チュイ! バルバロ! 誰か!』
 神室八重子だ。
 ケンブリーは有り得ない事態に頭を叩かれたような衝撃を受けると、慌ててジョイナーに言った。
「ジョイナー! 止めろ!」
 ジョイナーは言葉も無く、腕に黒い布を巻きつけながら、唇を噛んだ。
「ぐっ……わかってる。でも、どういうことだ……、ワンのやつ、何してたんだ!」
 唇から血を流し、大きく何度も呼吸しながら、ジョイナーは言った。
「とりあえず、あの子たちのところへ行こう。多分、神室八重子は普段から自身の呪詛用ローブのおかげで平気なんだろう。問題は残りの二人だ」
 ケンブリーの言葉を聞きながら、ジョイナーは腕に布を巻きつけていく。
「くそっ……たれ! ふざけるなよあいつ!」
 ジョイナーは苛立ちと不安と、裏切られた気持ちで、心の中がぐちゃぐちゃになったようだった。もちろん、相手を心配する気持ちがない訳でもない。
だが、それ以上に、邪魔をされたことに対する憤りが心を支配していた。
そして、腕に布を巻き終えると、何も言うこともなく声の方へと歩み始めた。
その時のジョイナーの目は、殺意を帯びた剣呑なもので、ケンブリーは背筋が凍るような怖気を感じた。

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