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死に方を語らいあう日まで

私は死にたいとは思いつつも、未遂といえるまでの行動をしたことがありません。
ちょっと首を吊ってみようかな〜、とビニール紐で自分の首を括ってみたことがありますが、喉仏に紐がくい込んで咳き込んでしまいました。こんなもので死ねないとわかった上での行動でしたが、こんなものでも意外と苦しいもんなんだな、と感じました。

駅のホームから飛び込んだり、ビルから飛び降りたりもしてみたいと衝動的に思ったことはありますが、死ぬことに失敗した後の生活のことや、もし成功したとして、死体となった自分はどのような感じで回収されるのだろうと考えると、なんだか死ぬことすら苦しくなってきて段々とその気が失せていきました。同時に、この苦しさを超えてでも生きるのをやめたかった人たちがいて、生きている間の辛さはどれほどのものだったのだろうかと考えずにはいられませんでした。

今現在の日本は、自殺に対して否定的で(否定的であるに越したことはありませんが)、死にたいという感情を持つことすらも排除しようとする人が多いです。しかし、過去をたどれば国のために死ぬことが最も美しい死に方という風潮があったはずです。「生け贄」なんて死に方もあった(地域によっては今現在もあるかもしれない)し、信仰心を示すために死ぬこともあるし、罪人の処刑が見せ物になる(これも地域によっては今現在もあるかもしれない?)時代もありました。
そう考えれば、世の中というものはいつの時代も、生き方にも死に方にも随分不寛容であるなぁと感じます。
単純に個々の人生など取るに足らないちっぽけなものなのかもしれません。だとすれば、人々が自殺をどう捉え、選択するかしないかはそれほど重要なことなのでしょうか。


死にたいと願う人はそんなに不幸な人なのか、死にたいのならば死ねばいいと言う人は、そんなに冷徹な人なのでしょうか…
私は、もっと生きることを重くとらえず、死ぬことを軽く話せるような雰囲気になってほしいと思っています。ただ、あくまで死についての話がまるでタブーであるかのような雰囲気が薄まればいいと思うだけであって、軽い気持ちで死ぬ人が増えることは望んではいません。

自殺は過度に責められるべきでも、過剰に崇拝されるべきものでもありません。
けれど、「そういう生き方もあるよね」と言うように、「そういう死に方もあるよね」と言えるような世の中になれば、死にたい人たちが死にたい思いを抱えながらも、それを隠さずに少しの間だけでも生きていけるのかもしれないと思います。

よく飲みの場で、自身の生き方を熱く語る人のように、もし私にも語れる人ができたなら、
暖かく静かな部屋で、
自分の死に方、相手の死に方を語らいたいと思います。

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