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死ぬ時に誰かいるのか

子供を授かりたいという気持ちは、人それぞれの理由があると思いますが、私はそういった気持ちがまるで湧かないまま歳をとってしまいました。
死にたいという気持ちを抱えながら生きることも理解してもらえず、子供が欲しいという気持ちにすらなれずに死んでいくことに、普通の人間、ホモサピエンスとしての生活を営めなかったと若干の寂しさを感じますが、死のうと思えば自分のタイミングで死ねばいいし、心配事(子供)を残して死んでいくようなことにならないのは、気を楽にして死ねそうだなと思っています。


ある時、子供が何故ほしいと思うのかという話の中で、一人の友人から興味深い回答を得られました。
それは、「死ぬときに看取ってくれる人がいてほしいから」でした。

これは私には全くない考え方でした。自分が死ぬときに誰かにそばで見ていて欲しいと思うものなのでしょうか?そもそも看取り人は血が繋がっていないといけないのですか?親が死ぬ時に子供が看ておかなくてはならないという役目を生まれながらにして期待されるのは、流石に荷が重いのではないでしょうか?
もっとも私が理解に苦しむのは、そういう考えを持っている人は少なくないということです。

親の死に目に会えないことが、子供にとって大きな傷となったり、日本では親不孝の象徴とまでなったりもします。親の死に目になど会える確率の方が低いのに、子供が傍で看てやらないと安らかに逝けないのでしょうか。私からすると、子離れできない親が最後までごねているだけのことを、「親不孝」として言い訳しているように思えて甚だ理解ができません。


私が小さい頃から、母は猫のように死にたいと言っていました。猫は、自分の死期を悟ったとき、住み慣れた場所から去り、見つかりにくい場所まで行って最期を迎えるという習性があるみたいです(完全室内飼いの猫が多い現在ではそういうパターンも減ってきているのかもしれないですが…)。そんな寂しい死に方を考える母を悲しく思う頃もありましたが、今では私も同様の死に方に憧れを抱いています。


私が本当に死ぬとき、傍に誰かがいるものなのでしょうか。仮にいたとして、最期を迎えようとしている私は、もはや意識も朦朧として、傍にいる人間が誰かも認識できていないかもしれません。そう考えると、看取りに関しては特段、というより全くこだわりはありません。ただ、誰かに死ぬまで看ていてほしいという選択肢も、「そういう死に方もあるよね」と受け入れられるべきものなのでしょう。


この記事を読んでいる方は、誰かに手を握ってもらいながら死ぬのが理想ですか。もしくは、手を取り合って誰かと共に死にたいでしょうか。それとも、最期くらいは一人で死なせて欲しいと思っていますか。


私は、生まれる場所は選べなかったのだから、死ぬ場所くらい選んでもいいんじゃないかと思っています。
それが、最期に幸せと感じられるのならば。

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