「死にたい」は思い込みなのか
「ものは考えよう」という言葉は、何にでもよく使われる言い回しですが、「死にたい」という気持ちも、考えようによっては「生きたい」という気持ちの強さの表れだと捉えられることもありますよね。
けれども、全ての「死にたい」という気持ちが生きたい気持ちにつながっていると、私は思いません。
私自身、「死にたい」という気持ちは、「生きたくない」気持ちと「死ねない」という気持ちが混ざりあった時に生まれます。
世の中は全く平等ではなく、理不尽なことがたくさんあって、いつも自分は貧乏くじを引いたり、貧乏くじを引いた人を支えて面倒ごとに巻き込まれてしまう。そして、誰も私の本当の気持ちを理解して、私の幸せを願ってくれる人などいないとまで思ってしまうことがあります。
そんな生活の中でいつまでも生きていかなければならないのは、想像しただけでも耐え難く、一刻も早く生きるのをやめてしまいたくなります。
けれど、その辛い生活から逃げるために死を選ぶことこそ、まさに悲劇ではないだろうか、という考えもまた同時に浮かんできてしまいます。死ぬことは私にとって、安寧の地へ導いてくれる手段になるのだろうかと、自分に自信がないから選択すらできず、ただ辛い現状のまま立ち尽くすことになるのです。
そうやって、生きることへの逃避と、死ぬことへの懐疑を繰り返しているうちに、死を渇望するような感情が生成されていってしまいます。
こういった葛藤は、論理的でも科学的でもなく、めちゃくちゃな感情だと感じる人が大半ではないかと思います。私が死にたい気持ちを周囲の人に話せないのは、この難解な心の葛藤を理解してもらえないならまだしも、その気持ちを批判されるのではないかという恐怖があるからです。ましてや、それこそ「そんなもの気持ちの問題だ」というような言葉を投げかけられれば、ますます人に打ち明けることはなくなっていくでしょう。天動説が正しいという時代に、地動説を唱え非難の嵐を浴び捕らえられるようなことはしたくはありません。大げさな例えかと思われるかもしれませんが、今は自殺は正しくないといわれる時代です。
この記事に目を留めてくださった方は、今死にたい気持ちでしょうか。
どういう死にたい気持ちですか?死にたいと単に思い込んでいるだけ?本当は生きたい?誰かに助けてほしい?それとも、本当に死にたい?
私自身、抱えている死にたい気持ちはまだおとなしく腕の中で眠っているような感覚なので、いつか牙をむいて襲い掛かられるまでは、ここで自分の、そしていろいろな人の死ぬことへの考えについて、歩くような速さで書いていきたいと思います。