葬式に呼ばないでほしい話
人間は死んだらどうなるのかーー
この問いに対する答えは、人によって大きく異なるだろう。
僕は、死後の世界なんか無いと思っているし、幽霊も信じていない。
死んだら、「無」になるだけだと思っている。
もし、死後の世界があるとしても、そこには人間はおらず、動物さんたちだけでお花に囲まれて幸せに暮らしていると信じている(これは願望)。
だから、自分自身が息を引き取った後については、どのように葬られようが、本当にどうでもいい。
自分が「無」になったあとなので、どう扱われようが知る由もないからだ。
法律が許すなら、火葬場に死地直送(「産地直送」の死バージョン。話は逸れるが、「産地直送」も魚介類目線で見たら「死地直送」だと思う)して、骨はその辺に捨てておいてくれればいいのだけれど、そうもいかないだろうから、好きにしてほしい。
それくらいの認識である。
ちょっと前に、「結婚式に呼ばないでほしい」という内容の記事を書いたのだが、
同じく僕は、葬式やそれに付随する催しについても、ぜひとも呼ばないでほしいと思っている。
別に、宗教上の理由があるわけでもない。
葬式には、チョココロネだったら大当たりだと思ってしまうほど、頭からお尻まで丸ごと「意味わかんない」が詰まっているからだ。
そういうわけで、これから僕が思う、
「葬式の意味わかんない」
をただただ記していく。
大人げないとか、こじらせているとか、色々意見があるかもしれないが、苦言を呈する前に、ご一読いただければと思う。
でも、題材が題材なので、嫌な人は早々に離脱してほしい。
※日本では仏教式の葬式が多数を占めているため、以下で扱う題材についてもそれを前提にしております。
○葬式にまつわる謎マナー
お悔やみの言葉
ご存じのとおり、遺族にかける言葉である。
相手は、「家族を失う」という、人生最大級の悲しみに直面した人だ。傷つけないよう、気を使わなくてはいけないのはわかる。
でも、マナーとして定められていることは、かなり的外れなものなのだ。
例えば以下のようなものがある。
出たよ。結婚式と同じ「不謹慎連想ゲーム」である。
うるせえなぁ。相手に思いやりを持って接すればそれでいいだろうが。
なんだよ、
「不幸が繰り返されることを想起」
「死や苦しみを想起」
って。
妄想とマイナス思考が甚だしすぎるのだ。
いや、その思考が失礼だろ。
そんなん言い出したら、
“佐々木さん”
なんて、
「くりかえし(々)」
がついているから参列はご遠慮ください、という話になるだろうが。
佐々木奈々さん(49)
なんてもう、超絶出禁案件になるだろうが。
香典
結婚式の祝儀と同じく、その人との関係性によって額が変わる香典。
個人的には、香典については祝儀ほど「高い」という感情は抱いていない。
大切な人の死ほど、辛く悲しいことはない。
相手は、その気持ちを味わった直後の人だ。香典くらい払うというもんだ。
その香典であるが、仮に渡した後に
と思ったとする。
その場合でも、追加で渡すことはNGらしい。
これも
「不幸が繰り返される」ことを連想
させるためだからだそうだ。
また連想だよ。
そんなん言い出したら、
坊さんのお経なんか同じフレーズを何度も繰り返していますけど、それはいいんですか。
という話になるだろう。
そもそも、
通夜、葬式、告別式、四十九日など、何度も繰り返して不幸に関する催しをやるな
という話である。
…というか、もう「四十九日」という、バリバリ不謹慎な催しが存在するじゃん。
どうなっているんだおい。
由来を調べてみると、
「生まれ変わる(またはあの世へ行く)のが49日後であるため」
らしい。
4と9、逆にもう縁起がいいじゃねぇか。
何なんだこれは。
喪服の色
僕がまだ社会人になりたての頃、会社の人が突然亡くなってしまったことがある。
葬式に参列することになったのだが、僕は喪服を持っていなかったので、紳士服店に買いに行くことにしたのだった。
とりあえず安いやつでいいか、と手に取ったところ、お店の人にこんなことを言われた。
いや、意味わかんないのだ。
何なんだ、“葬式に適さない喪服”って。
「潜水に適さないダイビングスーツ」
「米作りに適さない田んぼ」
「ウォーキングに適さないスケッチャーズ」
くらい存在する意味がないだろう。
お店の人曰く、喪服は光沢のない漆黒を着なくてはいけないらしいのだが、安物は黒が薄いらしい。
黒が薄いと光沢があるようにも見えてしまうし、安物なのが一目瞭然だから、結果的に葬式に適さないということらしい。
…じゃあもう、それ売るなよ!
葬式で着れないなら、その喪服はいつ着るんだよ。寝間着にできるわけでもないのに。
というか、
別に光沢があってもいいだろ。
ヤングマンの時の西城秀樹くらい派手な衣装だったらまだしもさ。
だいたい、こっちはわざわざ喪服を用意して、香典も持参して哀悼の意を示しているのである。
そんな人に
と思ってしまう人の方が不謹慎だろうが。
“喪服の色の濃さや光沢の有無で判断するのは不謹慎です”
というマナーの方を普及させろ!
最期にお顔を見てやってください
これはもう、本当にご遺族には申し訳ないけれど、単純に嫌なのだ。怖いのだ。
つい最近まで生きていた人間(しかも知り合い)の、文字通り生気が無くなった顔というのは、恐 怖でしかない。
家族だったら別だが、たとえ生活お世話になった恩師とかのものでも、嫌なものは嫌なのだ。
死体(ご遺体)をわざわざ見る必要ないし、
なんならちょっと「悪趣味だなぁ」と思ってしまう
のである。
○「人の死」を逆手に取ったがめつい商売
ここまで参列者としての視点で語ってきたが、喪主として葬式を手配する側の視点から見ても、「意味わかんない」がたくさんある。
葬式は金かかりすぎ問題
冒頭に述べたとおり、僕は自分が死んだ後はどのように扱われても構わない。
ただ、遺族からしたら、「大切な人の死」というものは、そう簡単に割り切れるものではないだろう。
少しでも気持ちよく見送りたい。
万が一、あの世があるのであれば、天国へ行ってほしい。
そう願うのが人間というものだ。
その気持ちをいいことに、葬式にかかわるものはとにかく金がかかる。
葬式というのは、生前から計画を立てることを避ける傾向があるため、いざその時になるまで準備をしないことが多い。
十分に計画を立てていないことを逆手にとって、高額をむしり取っていくのである。
豪華なものにするのか、簡素なものにするのか、参列者の数などでかなり費用は変わってくるが、一般的な規模の葬式でも、何だかんだで全部合わせて100万円以上はかかるという。
「人の死」というゆるぎない事実を盾に、足元を見過ぎなのだ。
最後の見送りがみすぼらしいのは…という遺族の気持ちを悪用し、随分といい度胸をした金額を取るのである。
坊さんぼったくり問題
そして、お坊さんにも金を払わなければいけない。
もちろん、葬儀業者に払う代金とは別物だ。
「お布施」というやつである。それにも何十万円もかかるらしい。
もう、仏陀に頭突きされることを覚悟していうけれど…
スキンヘッドおじさんが念仏唱えただけで何十万て。
この世で(あの世でも)最もボッタクリだと思うのだ。
また、戒名にもお金がかかる。
位牌に記される「○○院○○居士」みたいな漢字の羅列、あれが戒名である。
「仏様の弟子になった証として名付けてもらう名前」であるらしい(実際には坊さんが名付けるだけであるが)。
それにもまた、何十万円もかかるという。
じゃあそんなものいらないよ、という話なのだが、そうはいかないらしい。
そもそも戒名って何のために必要なのかというと、
・戒名がないと極楽浄土にスムーズに行けない
・位牌に戒名を記さないと魂が帰ってこられない
・寺院によっては、戒名がないと納骨できない
とか、色んな理由があるらしい。
いや、もうそんなこと言われたら払わざるをえないじゃん。
死者を人質に取られているようなもんだ。
実に胸糞悪いのである。
遺族忙しすぎ問題
だいたい、家族が亡くなって悲しみのピークにいる人がやることが多すぎだろう。
死亡届を出して、遺品整理をして、生命保険の手続きをして、色々な名義変更なんかをするだけで 大仕事なのである。
それプラス、葬式の準備をして、参列者や坊さんをもてなして、火葬して…
もう、
確定申告と選挙と自然災害が重なった時の自治体職員
納品とレジ点検とゴルフ宅急便が重なった時のコンビニ店員
と同じレベルでオーバーワークなのだ。
“忙しさで悲しみを忘れさせる”
という側面もあるらしいが、いやいや、悲しませてやれよ。
ここで悲しまなくていつ悲しむんだよ、という話である。
ワケ分かんない催しの準備に奔走して100万単位のお金をかけるよりも、故人を想って時間を過ごすことが、一番の弔いではないのか。
…と、このように、結婚式と同じく葬式についてもたくさんの文句が生産されてキリがないので、皆さんが亡くなってもどうか僕を葬式に呼ばないでいただきたい。
ちなみに、結婚式と違って、葬式は自分の家族のものを開催せざるを得ないわけであるが、僕はもう、自分の親には、
と宣言している。
「冷たいやつだなあ」 と思っただろうか。
僕はそうは思わないし、たぶん両親もそう思ってはいない。
両親のことはとても大切に思っているが、葬式という催しにお金を使う必要はないと考えているだけだ。
それに、両親から見ても、
・自分の葬式のためにお金を残す必要はない
・息子もお金は用意しないと宣言している
これってすごく気楽に生きられる材料になるのだ。
結婚と違い、誰もが必ず経験する死。
自分が主役の時は、すでに自分はこの世に存在しない「葬式」という催しーー。
もしも慣習やマナーが足かせになるのだったら、そんなものは丸ごと放棄してしまえばいい。
死んだ後のことよりも、生きている時間を大切に。
僕は心からそう思っている。