「誰が言うか」ではなく「何を言うか」を大切にしたいという話
これは、稀代のスーパースター・イチローの言葉である。
さすがイチロー、いいこと言うなぁ。
聞いた人全員がそう思うだろう。
では、同じ言葉を、
“親の年金を食いつぶしながら毎日パチンコをして暮らしている50歳無職のおじさん”
が言ったらどうだろうか。
何言ってんだこいつ。いいから早く自立しろよ。
という評価が大半を占めるだろう。
このように、言葉は「何を言うか」ではなく、「誰が言うか」で、全く印象が変わってくるのだ。
同じ言葉でも、それを発した人の肩書や生き様、成し遂げてきたことが背景に加わることによってずっしりと重くなり、人の心に響く。
「この人が言うなら間違いない」
という状態だ。
こういったことは、日々の生活の中にも溢れている。
僕が以前勤めていた会社には、「社員提案制度」というものがあった。
社員から「こんな事業をしましょう」というアイディアを募集して、会社の重役たちがGOサインを出したものは、実際に会社のプロジェクトとして予算される、というものだ。
そこに、あまり目立たない社員が何年も同じ提案を出し続けていたのだが、一度も採用されることはなかった。
ところが、有望株とされている社員が似たような提案を出したところ、なんと一発で採用されてしまったのだった。
まさに、「『何を言うか』ではなく、『誰が言うか』」を象徴するような出来事であった。
また、ネット上では、人気俳優がSNSで
『おはよう!今日も1日頑張ろう!』
と投稿したら、
というようなコメントであふれるのに対し、同じくらいの知名度の芸人(好感度が低いとされている人)が同内容の記事を投稿すると、
という類のコメントをつけられる、みたいなこともある。
不条理だけれど、世の中ってこういうものなのだ。
何者でもない人(「何者か」であったとしても、上記の芸人さんのように、負のイメージを払拭できない人を含む)の言葉には、説得力がない。
それどころか、何かを「物申す」という行為自体に、苦言を呈されることもある。
例えば、“仕事ができない”とされている平社員が、職場への不満や改善点を訴えても、
というようなことを言われて、終わってしまうだろう。
本来は、「提案された不満や改善点」と「提案者がどんな人なのか」は分けて考えなくてはならないのであるが、残念ながら多くの職場はそこまで成熟していない。
内容なんか二の次で、「お前が言うな」で切り捨てられてしまうのだ。
一番良いのは、自分が「何者か」になることなのだろうが、それは容易ではない話だ。
だから、せめて“自分が言葉を受け取る時”には、
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」で判断できるような人間でいたい。
そう思うのだ。
何者でもない人が、何かを物申すのは難しい世の中ではあるが、そもそも世の中の大半の人が何者でもない。
そして、何者でもない人が発した言葉にだって、自分を導いてくれるものがあるはずなのだ。
“この人が嫌い”
“この人は仕事ができない”
というフィルターをかけて、言葉を丸ごと捨ててしまうのは、とてももったいない。
逆に、偉人の言葉だからといって盲目的に信じるのは危険だし、親しい人の意見だからといって、あまり賛成できない内容でも「角が立たないように賛同しておく」というのも健全ではない。
だから、その人の肩書とか、好き嫌いとか、仲の良さとか、そういった付録を取り去った「是々非々」の姿勢でいたいと思うのだ。
これをやっていると、もしかしたら「世渡りが下手な人」として扱われてしまうのかもしれない。
なぜなら、
だと思ってしまう人が、世の中にはたくさんいるからだ。
それは、多くの人が、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」で判断していることの裏返しだ。
そういう人からは
と思われるかもしれない。
ただ、「世間の評価」や「常識」というものは、周りの環境やその時代ごとに大きく変わってくる。
数年前の常識が、今の非常識になることだって多々ある。
一方、誰かの言葉によって得られた、「心が震えるような感覚」や「暗い視界が一気に開けるような清々しさ」は、時代や環境が変わっても、自分の人生を支え続けてくれる。
だから、余計なフィルターは取り払って、自分の人生の栄養となるような言葉を受け取っていきたいと思っている。
それで周りからどのように評価されたとしても、そんなものは放っておけばいい。
他人が評価を下すのは自由だが、それによって、自分が惑わされる必要はないのである。
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