貴様のマナー ⇑くだらないエッセイ⇑
かつて、
『貴様と俺とは 同期の桜』
という歌詞ではじまる軍歌があった。同じ部隊の同僚とともに戦地へ向かう時に、士気を鼓舞するための歌だ。歌詞はこう続く。
『咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょ 国のため』
今考えると、悲しい時代、間違った時代だった。当時、「貴様」というのは、国のために命を捧げる同僚や目下の者に対して、敬意や親しみを込めて使われていたのだ。
時は中世、室町時代。
「貴様」というのは、武家の間で使われた「あなたさま」という尊敬語だったのだという。文字通り、“貴”様なのであった。
その後、「貴様」は遊郭の女性が男性客に対して使う呼称として使われたりしながら、だんだんと庶民の間でも使われるようになった。そして、いつのまにか意味が逆転してしまった。どちらかというと「貴様」は、目下の者にののしり気味に用いられるようになったのだ。
時は近世、江戸時代。
当時、御殿様に対し敬意を持って「貴様」などと呼ぼうものなら、暴れん坊将軍が御自ら「市中引き回し」の上、打ち首に処されるのは必至だった。将軍の事は「上様」と呼ぶのがマナーであった。と思う。
時は平成、バブル時代。
新社会人になった私は、取引先の接待などでこちらが支払いをする時、宛名を会社名義にした領収書を貰っても構わないという衝撃の事実を知った。その後バブルは弾けたが、接待はまだまだ盛んに行われていた時代だ。後日、経理のお姉さんに会社名義の領収書を渡せば、立て替えていたお金がそっくりそのまま返ってくるのだ。豪華なタダ飯が食えるというのは、まさに、私にとっての “打ち出の小槌” であった。
あるとき上司が支払いをする際に、店員から、
「領収書の宛名はどうされますか?」
と聞かれ、
「上で」
と答えるのを見た。領収書の宛名に「上」と書くと、「上様」となるようなフォーマットになっていることが多いのだ。たしかに、うちの会社名、長くて宛名を書いてもらうのに時間が掛かることがあった。しかも社名が漢字なので、
「どういう字を書きますか?」
などと聞かれて、説明するのも面倒だった。
「上」と書くだけでいいのか。これはスマートだし、まるで殿様になった気分だ。領収書という “打ち出の小槌” と「上様」という魔法の言葉を手に入れた私は、そのような気分のいい支払いをする時を、今か今かと待ち望んでいた。
そして遂に、その時が来た! 店員から
「領収書の宛名はどうされますか?」
と聞かれた私は、心臓バクバクさせながら、心臓バクバクを店員に悟られないように少し勿体ぶった様子で、いつものことのように手慣れた感じを醸し出しながら、
「上で」
と答えた。
なんて素晴らしい瞬間なのだろう。しばらくその感動に浸っていたのだが、どうも店員の様子がおかしい。
「上、ですか?」
なにか戸惑っているようだ。つい先日からアルバイトで働いているのだと分かった私は、店員に、
「ああ、会社名じゃなくても構わないので、上でお願い」
と、社会人先輩として、ビジネスマナーについてレクチャーするかのごとく、少し「上から目線」で声を掛けてみる。接待で酒を飲んだ後のほろ酔い気分と、少しの優越感が入り混じった、なんとも心地よい秋の夜だった。
「ありがとうございました」
店員に見送られるのを背中で感じながら、最寄りの駅へと急ぐ。ふと気になり、受け取った領収書を見て私は驚愕した。
宛名に「うえ」と平仮名で書いてある。店員は「うえ」を私の名字だと勘違いしたのだった。店員が戸惑っていたのは、
「変わった名字だなあ」
と思ったからだ。と思う。