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【修善寺温泉読書会】横光利一『春は馬車に乗って』
バレンタインデーだなんて。
僕の祖父母はクリスチャンだから、幼少期のころから親戚が一堂に会するときは決まって教会に連れてかれていた。小学生にもなっていないときは母と一緒に退屈そうに子供ルームでテレビに映っている教会内を見たり見なかったりして過ごしていた事を覚えている。
そんな僕とバレンタイン(ここでいうバレンタインは、異性間で行われるなんらかの交換儀式)の距離はやまびこできるほどに隔たりがある。
今年もそんな日がきた。だが今年はラッキーだ。修善寺温泉読書会が隔たりを埋めてくれたから。
今回の書籍は、横光利一の『春は馬車に乗って』。
恥ずかしながら(これはもはや文字面のみでしかなく、字義などは無視)、横光利一は読んだことがなかったので楽しみにしていた。
いつものように30分間かけて1人で黙々と読む。
僕は思わずニヤニヤしてしまった文章には印をつける。
今回は7つつけた。
その中で特にニヤついた文章がこちら。
しかし、彼はこの苦痛な頂点に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、寧ろ数段の柔かさがあると思った。
してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
この物語は、肺病を患って寝たきり状態の妻とその看病と仕事とに追われている旦那とのやり取りで構成されている。
”檻の中の理論”を振りまく妻と”理智的”な旦那。
病態が悪くなる妻と疲れていく旦那。
彼らの距離が近づいていくことを描写した文章に僕は感心してしまったのだ。
幸福というのはなぜ常に刹那的なのだろうか。
刹那的が幸福の必要条件なのだろうか。
そのわずかな時間だけが、遠ざかっていく二人を近づける。
このようなことをこの2つの文章は描いているわけだ。
選書をした主催者の一人が、「バレンタインだからこその選書です」と言った。
まさにそうですな。そう心のうちで思った。
何かを贈与するという関係だけでは到達出来ない境地を描くこの作品こそ、真っ直ぐな愛なんだろうなと思った。
どんな言葉を交わすかよりも。
その言葉に対する感情の強弱を気にするよりも。
ただただその人のために疲弊していくという在り方の方が僕は真っ直ぐな愛だなと思った。
だからこそ、物語中で旦那が医者から妻はもう駄目だと言われた後に涙が力なく流れたのだろう。
疲弊していくだけなら良いが、疲弊したうえに一生埋めれない距離が生まれてしまうというのを覚悟できるほど我々はそれに慣れていないからだ。
愛というものに対して我々は妄想を働かせすぎてしまってはいないだろうか。
愛はシチュエーションのエモさじゃない。
現実というグロさの只中に在るものだ。
作り出せるものではなく、見出すものなのだ。
そうヴィクトール・フランクルは言うのだろうか。知らんけど。
黙々1人読書の30分を終え、参加者たちで意見を交わす。
発言権のバトンがあるわけでもなし。
各々が言いたい事を述べる。その中で出てきた言葉に添えるように別の言葉を編んだり、対岸に置いてみたり。
様々に言葉を生成しては、別にそれらを線でつなぐ事もせず。ただただそういう時間を過ごす。
読書体験に整合性などなければ、正誤もないからね。
これでいいのだ。(某お父さん)
当日の読書会の様子は主催者の一人の仲原さんがまとめてくださっているレポートが断然見やすいのでぜひ。
次回の読書会は、3/29(土)に開催します。
私が選書&切り盛りをさせていただきます。ぜひぜひ。
2月〜4月の読書会のお知らせです。
— 伊豆読書会/修善寺温泉読書会 (@izudokushokai) February 2, 2025
2月はバレンタインデーに開催。日本近代文学で・初春で・"愛"! ということで、#横光利一 「 #春は馬車に乗って 」を読み、みんなで感想を語り合います📚
"聞くだけ"参加も大歓迎です!
お申し込みはこちら(〜4月まで申込受付中!)→https://t.co/C5VAT8ReVx pic.twitter.com/ibLS4SMdy9
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