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屁理屈。

どこでどんな事をしていても、隣の芝生は青く見えるものだ。
自分でない誰かを羨むことは別に大して突飛なことではない。
いつ何を手にしても、ないものねだりをしてしまうものだ。
自分が持っていないモノを求めることは別に奇天烈なことではない。

とは言いつつも、それらの感情が心をムズムズさせてくる事には変わらない。
そのもどかしさが気持ち悪い。
誰しもが感じることだろう。

最近改めて言葉について考えている。
まぁ古くからこの種の議論はされていて今それらを自分なりに伝っているのだが、おかしなことに一向に腑に落ちる気がしない。
自分の机の上に本がバベルの塔のように積みあがっていっているはずなのに、一向に地上の重力から逃れられる気がしないのだ。
この時私はどこまでいってもこの星の生物なのだと認識させられる。
私が文字の羅列を処理しているときのあの高揚感は宇宙でもなんでもなく、この星の制約を充分に受けて出来上がる“私の世界”でしかない。
そんな“私の世界”とは全くもって別の理屈でこの星は生きている。
そんな当たり前のことすらも気が付けないほど、“私の世界”というのは深いのか。
いやそんなこともない。
たった数十年で構築された“私の世界”なんかよりも“目の前の世界”の方がずっとずっと深いはずだ。
なぜかって?
“目の前の世界”にはわからない理屈が多すぎるからだ。
“私の世界”は理屈が単純に感じる。私が今覚醒剤を摂取し始めたら私は摂取以前の私から大きく逸脱した行為をしていくだろう。そんな私を見て身内は離れていくだろう。私はもう少し身内と仲良く時間を過ごしていたい。だから今覚醒剤に手を出すことはよしている。
しかし、メタンフェタミンがなぜ脳内のドパミン産生を過剰に促すのか。それはなんのためにそのようなメカニズムとなっているのか。
その理屈は全く持ってわからない。
もっというと我々は“目の前の世界”から観察できた具象をカテゴライズ、命名することによって“私の世界”へ翻訳をしている故に、「”メタンフェタミン”と呼ばれる”それ”の在り処を知っている」ということになっているが、個々人が直接見たわけでもない。
翻訳された概念を工作して“私の世界”に取り込んでいる。
“私の世界”に影響を与える”言葉”というのは、そういう概念たちを用いた理屈のゲームである、と20世紀最大の哲学者は述べたわけだ。

言葉というのはなんなのか。
もっというと、モノを考えるっていうのはどういう営みなのか。
言葉がなければ考えれないのだろうか。
記号のやり取りを他者と成立させることが出来なければ、私の考えというのは証明できないのだろうか。客観的にはそうだろう。
では客観とはなにか。モノ自体っていうのはなんなのか。(教えてカントさん)

隣の芝生は青く見えるのはなぜか?
それは“私の世界”の理屈から派生しているのか?
ないものねだりはなぜ起こるのか?
“目の前の世界”がそうさせているのか?

わからない。
もう少しバベルの塔を建設してみるか。

しかし私はバベルの塔を完成させることよりも、わからないなりに積み上げるという行為による、
目の前の世界とのインタラクションが“私の世界”には重要であると感じている。
“私の世界”で工作できる理屈の諸要素は目の前の世界の理屈の影響を多分に受けているからだ。

しかし“私の世界”の理屈というのも冷静になって向き合ってみると、思っていたよりも単純ではないことに気づくのは易い。
それは言葉以外の体験のおかげである。
唐突に感じる衝撃。言葉にしようにも理屈が思い浮かばないもの。
畏怖や不安、愉悦。
それらの感情は五感という要素で説明できる代物ではない。
言葉や体験で出来上がる“私の世界”の理屈というのは非常に複雑なのだ。

“私の世界”と“目の前の世界”という二元論では到底到達しえない理屈がわたしの中にも、わたしの外にも存在する。
このような想定を否定する論拠を“僕”はまだ持ち合わせていない。

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